2023/07/30

⚫︎グレアム・ハーマン『ART AND OBJECTS』の第五章。ここで扱われるのは、ハロルド・ローゼンバーグ、レオ・スタインバーグ、T・J・クラーク、ロザリンド・クラウス、ジャック・ランシエール。これらの人々の言説を概観し、オブジェクト指向存在論(OOO)の立場から、同意できる点(注目すべき、優れた点)と、同意できない点(批判されるべき点)とが仕分けられて、整理される。この中ではローゼンバーグとクラークがやや軽く扱われ、特にクラークに関してはほぼ否定的なことしか書かれない(フォーマリズムがダダやシュルレアリスムを不当に低く扱っているという主張のみが肯定されるくらいだろう)。以下、引用はChatGPTの訳による。

⚫︎大雑把に言って、OOOグリーンバーグ的なフォーマリズムを評価する(同意する)点は二つある。一つは、作品の自律性を重要視するところ。もう一つは、作品にとって重要なのは「質」であり、質(美)は「味」のようにして味わわれるしかないとするところ。一つ目はオブジェクトの自律性に関わることで、二つ目はオブジェクトの退隠(脱去)性に関わることだ(世界は決して全てを露わにせずただ「仄めかす」)。それに対して、メディウムの重要性や(フリードにおける)演劇性の否定などは共有されない。ただしハーマンは、演劇性とリテラリズムを分けて考えていて、演劇性は否定しない(どころか積極的に肯定する)が、リテラリズムには否定的だ。観客は、観客自身が生きた比喩となり、作品の一部となることで作品が完結する、と考える。

⚫︎ローゼンバーグに関しては、「作品」を行為(アクションペインティング)や生活、画家の生涯などに還元する姿勢が否定的に捉えられ(《ポロックの作品の中でより成功したものとそうでないものを区別することができ、それは彼の人生の物語を理解することとは無関係》)、しかし、彼のそのような態度は、ヨーゼフ・ボイスやシンディー・シャーマンなど、後のヨーロッパの作家には当てはまるかもしれないとする。ポロックのアクション(制作中のポロックの映像)をポロックの作品の代替物にはできないが、ボイスの場合はパフォーマンスそのもの(その記録映像)こそが作品であり、その結果残された痕跡(コヨーテとの綱引きによって引き裂かれた毛布など)をその代替物にすることはできない。つまり、作品内に「アーティスト自身」が古典的なアートオブジェクトよりもより深く食い込んでいる。

⚫︎グリーンバーグ抽象絵画に優位を置くのは、事物は三次元空間内に存在しているため、描かれた具象的事物は簡単なシルエットであっても三次元空間を容易に連想させ、絵画のメディウムである二次元性(平面性)から遠ざかってしまうという理由からだ。しかしグリーンバーグは、抽象的な作品がいつの時代にも常に優れていると言っているのではなく、(当時の)「現代の絵画」にとっては抽象的であることが必然であるとしているだけだが。

ローゼンバーグはそれに対し、完全に抽象的な芸術は存在せず、幾何学形態や質素な色彩からなる作品であっても、人間にとっての自然の経験から触発されて作られるのだとして、抽象と具象を区別することに疑問を投げる。《機械的で非創造的な要素は、自然の模倣ではなく、アカデミック主義にある》。芸術は芸術の内部(メディウムの本質)に触発されるのではなく芸術の外部(自然)に触発されるのだ、と。もっともな意見のようだが、ローゼンバーグの議論はここから逆転が起きるとハーマンは書く。ローゼンバーグは《自然の事実が目によって意味ある現実として見なされる場所で、芸術は自然の事実を求める。それがそう解釈されない場所では、我々は反人間主義的な歪曲、聖堂的な様式化、または抽象化を見つけるだろう(…)このような抽象は引き続き現実を理解し、表現し続けるだろう...ただ、現在表現を求めている事象は、彼が心の新しい秩序から引き出したものである》と書く。ここでハーマンは、ローゼンバーグが「自然」と「心の中」を混同しているとする。「芸術の内」から「芸術の外(自然)」へと求められた根拠が、再び「心の中」へと内部化して「唯心論」へと傾く傾向が彼にはある、と。

それはともかく、《Steinbergの真の動機は、全ての絵画が模倣的であるという考えを拡大することで、芸術が自己完結的なものであるという形式主義の概念を排除したいという点にある》だろう。それはいいとして、このような考えが《全てが自然であり、全てが関係性の中にあるという大掛かりな教義を導出する》に至ると、作品は形式上の自己完結性(自律性)を捨てることはできないと考えるOOOとは相容れなくなる。OOOでは、グリーンバーグのようにはメディウムの本質(メディウムの単一性)を重視はしないが、作品の(オブジェクトの)自律性は最重要視される。

いかに多くの因果関係(伝記的、心理的、社会的、政治的、自然的)が作品を生み出すために、あるいは作品を維持するために存在したとしても、作品それ自体は(他のオブジェと同様に)これらの支えを超えた何かである。そのため、極めて選択的に環境の一部を受け入れる。》オブジェクトは関係性(上方解体)には還元されない。

フォーマリズムの自閉性に苛立つローゼンバーグは、フォーマリズムの展開を「解決されるべき問題として「特定のタスク」があらかじめアーティストに与えられていて、アーティストはただ「問題を解く」ためだけに作品を作っているかのようで、それはまるで企業のプロジェクト内で「解決が要請される問題」を扱うテクノクラートのようだ」と揶揄する。それに対しハーマンは、《作品に先制的な自律性を与えることは、少なくとも政治的な含みを急いで考えることを防ぐ。スタインバーグがグリーンバーグ形式主義デトロイト自動車産業の「企業の技術支配」に結びつけようとする無意味な試みなどはそうです》と書いて抑制する。

⚫︎ローゼンバーグは、具象と抽象だけでなく、三次元的なイリュージョンを持つ作品とイリュージョンを廃した平面的な作品との間にも重要な違いはない、と言う。なぜなら、あらゆる時代の偉大な画家は常に、表面(平面性)と深部(三次元的な深さのイリュージョン)との緊張関係の中で仕事をしており、片方を他方より優位なものとは見ていないのだから、と。これはまさにその通りだとぼくも思う。ローゼンバーグからの引用。《彼ら(オールドマスター)は単に表面と深度の関係を考慮しているだけでなく、装飾的な一貫性のためだけに深度の出現を保留しています。むしろ、彼らは明示的で制御され、常に見える二重性を維持しています》。《重要な芸術は、少なくともTrecento以来、常に自己批判に取り組んでいました。それが何であれ、すべての芸術は芸術についてのものです》。

しかしこれについてもハーマンは保留をつける。グリーンバーグがキュービストのコラージュ作品において「複数の基底面の間に振動を生み出す」状態を作り出していることを高く評価することに対して、スタインバーグは、同様のことはオールドマスターが既に行なっていたとして、それほど驚くには当たらないと言う。しかしハーマンは、グリーンバーグ以前には誰もオールドマスターについて「そのような言葉」で分析をしたことがないという点を指摘し、仮に、オールドマスターが既に同様のことを達成していたとしても、少なくともそれを意識化・言語化したのはグリーンバーグが初めてであり、グリーンバーグからそのような分析を引き出させたのは、ピカソやブラックの作品であるのだ、ということは軽く見られるべきではないとする。(以下、私見)これは、カフカの出現によってそれ以前の小説の読み方が変わってしまうというようなことにも似ていて、遡行的に潜在的なものをあらわにすることそのものが「新しいもの」が出現したことの証なのだ。

⚫︎クラークに関しては、ほぼ否定的なことしか言われない。《クラークはしばしば論理学者が「起源の遺伝学の誤謬」と呼ぶものに罪を犯しており、すべてのものが生まれた状況によって本質的に印象づけられていると仮定しています》。《クラークに対する別の問題は、形式主義の対立者と対峙する際に、彼が系統的にそれらに答える責任を真剣に果たしていないことです》。フリードからの引用。《クラークが芸術的な媒体の重要性をグリーンバーグ的な用語ではなく、「否定と疎外」という用語で読み取っているということです》。しかし、《クラークのエッセイには中心的な主張の具体的な例が一切示されていないというのは興味深い特徴です》。

(つづく…)