●引用、メモ。『家庭料理という戦場』(久保明教)より。本質(定義)→プロトタイプ→「地」の変動。「外在的な認識の妥当性は、内在する諸関係の暫定的な効果に他ならない」。
《通常、私たちは、個々の料理を特定の記述によって同定される確固たる実体として考えているが、実際にそのような記述を特定することはきわめて難しい。例えば「カレー」という料理を同定しうる記述とは何だろうか。直ちに思い浮かぶ「肉や野菜に水とルゥを加えて煮込んだ料理」という記述は、カレー粉を使用した料理を含まない。「ルゥ」を「各種スパイス」と言い換えれば済むようにも思われるが、その記述では例えば「鶏手羽先とトマトを水と黒胡椒とローリエで煮込んだ料理」も含まれてしまう。最終的な手段として「各種スパイス」を「カレールゥやカレー粉に使われるスパイス」と定義すれば循環論法に陥ってしまう。》
《とはいえ、私たちは特定の料理名からある程度共通した料理をイメージすることができるし、実際に料理をみればその名前をある程度の精度で言い当てることができる。それは対象を同定する記述の束(対象の本質をなす要素の特定)によるものではなく、むしろ、認知言語学で言われるような「プロトタイプ」(その名称で呼ばれる事物の典型例)との類似性において様々な料理を把握しているからだと考えられる。》
《(しかし…)前述した「簡単節約☆鶏胸肉の焦げない唐揚げ」のようなレシピの広まりが「揚げる」という行程を欠いた料理へと「唐揚げ」のプロトタイプを変容させつつあり、あるいは、二〇一四年九月に検索ワード数が急上昇したことをきっかけに生じた「おにぎらず」ブームが、既存の「おにぎり」に隣接する新たなプロトタイプを形成しつつある。》
《(…)プロトタイプ論ではなぜ典型例が分裂したり変化してしまうのかを説明できない。にんにくを用いた料理の典型例は、「ラーメン二郎」のような料理と「ガーリックトースト」のような料理に分裂しつつある。「唐揚げ」と言われて想起される典型例は、ある人にとっては大量のサラダ油を注いだ深手の鍋で鶏肉を揚げたものだろうが、ある人にとってはフライパンに敷いた少量のサラダ油で鶏肉を炒めたものでありうる。あるいは、「おにぎらず」は、(…)現在おにぎりを扱う専門店の一部では単におにぎりの一種として販売されている。》
《家庭で作られる料理において、料理名で示されるカテゴリー(例えば「ビーフストロガノフ」)を個々の具体例に等しく適用される述語(牛肉と野菜をデミグラスソースで煮込んだもの)によって確定することはできない。ビーフストロガノフの牛肉を豚肉に変えても、それは「ビーフストロガノフ(のようなもの)」と呼ばれうるし、「唐揚げ」を揚げずに炒めてもそれは「唐揚げ」でありうる。個々の料理は家庭における固有の文脈において作られ食べれるものであり、そこでは、他の料理や他の事物がその文脈を逸脱させるものとして介入することが常に可能である。「おにぎり」にバゲットサンドやインスタ映えが介入して「おにぎらず」を含むものへとその典型例が変化しつつあるように、プロトタイプによる外在的な認識の妥当性は、私たちが内在する諸関係の暫定的な効果に他ならない。》
《「分析する私」が依拠する様々なカテゴリーが、「暮らす私」の実践において不安定化され再編されていく。それは個々の料理だけでなく、「手作り」や「我が家の味」といった暮らしを意味づける諸概念にまで及んでいる。(…)暮らしを捉える諸概念が暮らしのなかで定着しながら変容していく。こうした循環的な運動において、暮らし(図)を分析する知(地)という図式は、分析(図)を駆動する暮らし(地)という図式に転倒されるのである。》