●「百年」で柴崎友香さんとトーク。
柴崎さんが言っていた新藤兼人の話がとても面白かった。新藤兼人の映画にはずっと殿山泰司が出ていて、つまり新藤兼人の映画には殿山泰司が占めるべき独自の位置というものがある。しかし、殿山泰司が亡くなってしまうと、その位置に六平直政がつくようになる。それについて柴崎さんは、「あ、六平さんでいいんだ(代わりはいるんだ)」ということに感動したという。厳密に言えは、殿山泰司と六平直政はかなり違う。その違いこそが重要だという立場もあり得る。でもまあそこは、「違っていてもいいんだ(同じだ)」という風に見ることもできる。その感じが面白い、と。俳優というのは、誰かの代わりを演じる存在でもある。
(例えば小津安二郎の映画でも、笠智衆の「代わり」は可能かもしれない、と考えると不思議な感じがする。とはいえ、小津の映画では、原節子は歳をとっても原節子であり、司葉子や岩下志麻がその位置についたということはなかったが。)
それともう一つ、これはトークのなかでの話だったか、その後に喫茶店で話していた時の話だったかの忘れたけど、山本耀司がインタビューで、「歳を取ると黒と紺の違いがわからなくなる(もどちらでもよくなる)」と言っていて、「え、山本耀司がそれを言ってしまうんだ」ということに感動したと言っていた。「六平直政でいいんだ(代わりはいるんだ)」というのは、この「黒でも紺でもどちらでもいいんだ」という感覚に近い、と。
●同じ映画監督の映画にいつも出ている、その監督の映画の一部であるような俳優がいる。新藤兼人における殿山泰司や乙羽信子、小津安二郎における笠智衆や原節子、三宅邦子、アルノー・デプレシャンにおけるマチュー・アマルリックやエマニュエル・ドゥヴォスなど。これは、「別の映画で、別の役でも、同じ人」と言える。名前はしらないが、ホン・サンスの『ヘウォンの恋愛日記』でアメリカの大学教授の役を演じていた人は、『自由が丘で』では、一文無しになって叔母のゲストハウスに転がり込んだ人を演じているし、他の映画にも出ている。
一方、「同じ映画で、別の人(俳優)でも、同じ人(位置)」ということがあり得る。例えば『ヘウォンの恋愛日記』で最初の方に、駐車場でタバコを吸っている、黒服に髭の男が出てくる。この男は、いかにもこの後の物語に絡んできそうな怪しげな(意味ありげな)感じで登場する。主人公とその母親が男を見かけ、母親が「ちょっといい男じゃない」とか言う。そして案の定この男は、主人公と母が「古本も売っているカフェ」の店頭で本をみている時、カフェの中からタバコを吸うために外へ出てくるという形で再登場し、二人と会話する。だがこの男はこれ以降、物語に絡むことはなく消えてしまう。主人公が、母がカナダに移住してしまった寂しさから一度は別れた不倫相手を呼び出し、その関係が再開されるという方向に物語は流れてゆく。
別れていた時期に主人公が付き合っていた男が原因で二人がケンカをするという展開があり、再び主人公が一人で「古本も売っているカフェ」の店頭で本を見ている時、黒服に髭の男と同じようにカフェの中からタバコを吸うために出てくる男がいて、そして同じように主人公に声をかける。男は黒服に髭の男とはまったく別の俳優が演じているのだが、この男は、黒服に髭の男とは別人であると同時に同じ人でもあると言える。黒服に髭の男は明らかに主人公をナンパしようとしているように見えたが、母親も一緒だったし主人公にもその気がないようで、なんとなくうやむやになってしまうが、この男(アメリカの大学教授)はそれに成功する。この男は主人公にとって――不倫相手とは全然違って――完璧に理想的な(というか、非現実的なまでに「都合の良い」と言うべきだろう)男である。男が主人公にとってあまりに都合の良すぎる存在であるのは、黒服に髭の男の欲望を彼に代わって代行するための存在であるからだろう。あるいは、黒服に髭の男は主人公を惑わす魔法使いで、主人公が不倫相手とけんかをしている時期を狙って、別の姿となって現れたのかもしれない。何にしろ、黒服に髭の男の存在(その怪しい感じ)が、アメリカの大学教授の登場を促し、その存在の背後に張り付いている。そのような意味で分身と言ってよいだろう。黒服に髭の男=アメリカの大学教授という存在が、一見リアリズムで描かれた恋愛映画のようにもみえるこの作品を、すごく不思議なものにしている。
●これらの話はすべて、「(多重化された)フレームと同一性と固有性の関係」という話だと言えると思う。そしてこれは今回「百年」に展示したぼくの作品と関係がある話で、同時に、柴崎さんの小説とも関係がある話だと、ぼくには思われる。
●展示は、26日の七時くらいまでです。