『冷血の罠』(瀬々敬久)をビデオで

●『冷血の罠』(瀬々敬久)をビデオで。この映画は何度か観ている。ぼくは瀬々監督の映画をそんなに好きではないのだけど、とても好きで何度も観ている作品が二本あって、それは『KOKKURI こっくりさん』(97)と、この『冷血の罠』(98)だ。この映画は哀川翔主演なのだが、同じくらいの時期に黒沢清哀川翔主演で撮った一連の傑作たちと拮抗するくらいの作品だと、ぼくは思う。
お話は、九十年代後半に多かったような、荒んだ、陰惨なものだ。哀川は探偵で、妹が何年か前に自殺している。自殺の原因は夫(西島秀俊)の浮気だと思っていたのだが、実はそれだけでなく、同じ時期に通り魔にレイプされていたらしい。夫の西島は、その犯人を探すために、街の犯罪マップをつくる。その街で起きた犯罪を(例えば、バイクのシートに火がつけられたというようなものまで含めて)、地図に番号入りで印付け、自らその現場に出向いて、犯罪を犯す者の行動や考えを読もうとする。しかしそうして街をさまよううち、西島は次第に犯罪者と同化してゆく自分に気付く。もはや犯人は、特定の者ではなく代替可能な誰でもあり得る誰かであり、それは「私」ですらあり得る。ある時西島は、その捜査のつづきを、元の義理の兄である哀川に依頼して、姿を消す。そして哀川も、西島の後をなぞるように、その地図上の点を順番通りに尋ね歩く。
この映画は、ダークなハードボイルドとして面白いのではない。この映画の舞台は、渋谷区桜ヶ丘という実在する地名をもつ。そしておそらく、撮影も実際に渋谷で行われていると思われる。つまりこの映画は「渋谷を撮った映画」として傑作なのだ。(この映画の物語の段取りは、映画をつくる時に実際に行うロケハンをもとにして組み立てられているのかもしれない。)この映画は、ある「土地」のある側面(ある表情)を描写するというような映画なのだ。この映画には、確かにぼくも行ったことのある渋谷の(九十年代終わり頃の)風景が捉えられているのだが、しかしそれだけでなく、まったく別の渋谷の姿も捉えられている。ここで捉えられている渋谷は、記号として誰でもに共有されている渋谷でもないし、かといって、奇をてらった、意外性や、映画としての効果だけが狙われて選ばれた渋谷でもない。この映画のラストでは、渋谷駅から旧ユーロスペースへの道のりをカメラが移動し、旧ユーロスペースと道路を挟んだ向かいにある自動販売機で哀川翔が飲み物を買うところが示される。それは、東京近郊の映画好きの人なら誰でもが通ったことのある道筋であり、見たことのある風景であろう。そしてこの映画が示す渋谷の風景は、意外なものではあっても、そこから地続きであることが納得されるようなリアリティをもっている。それは、誰でもが知っている渋谷の風景から、目立たない細い路地を抜けて行くと現れる、というような感じのものなのだ。ここで捉えられている渋谷の風景は、都市論などによって語られるものとはまったく別の、マテリアルとしての確かな手触りをもつ。(ビデオ映像の使い方など、とても素晴らしい。)
例えば、スチール写真でどこかの土地を撮ろうとすると、安易な人は簡単にその土地を象徴するような風景を撮ってしまいがちだと思うのだが、この映画では、「いかにも渋谷」といった渋谷を代表するような風景だけは撮らないようにしているようにみえる。それは他ではない渋谷なのだが、他の土地とそれほどかわらないような渋谷でもある。だいたい桜ヶ丘という地名からして、どこにでもあるような地名なのだった。それは実在する場所ではあるが、特別な、意味づけられた場所ではない。
例えば黒沢清は、実在する風景のリアリティを利用して、それをフィクションとしての「どこでもない場所」として組み立てて、つくりあげる。それはあきらかに東京か、東京近郊の風景ではあるが、具体的にそれを「どこ」だと示すことは出来ない。それは抽象化されることで抽出された「現代の東京の風景」というリアリティなのだ。(『叫』の湾岸地帯にしても、やはりあれはどこでもない「架空の湾岸地域」だと思う。)それに対してこの映画では、渋谷区桜ヶ丘という、実際に特定出来るし、そこに出かけてみることの出来る「場所」を舞台にして、実際にその場所の風景を捉えることで、リアリティを得ている。俳優の演技も、映画のトーンも、カメラの位置や動きも、それが実際のその空間のなかで撮影されたことによって決定されているように思える。この映画の主題であり、主役でもあるのは「渋谷区桜ヶ丘」という土地そのものであろう。この映画は、映画というものが「土地(場所)」をこのように撮ることが出来るのか、という驚きをもたらしてくれる。(まるでリヴェットの『北の橋』のようだ、というよりも、まるで柴崎友香の小説みたいだ、というべきだろう。)