08/02/06

●すくなくともぼくにとっては、作品をつくるためには引きこもって一人になる必要があるようだ。これはどういうことなのだろうか。
先週は、ぼくとしては珍しく、人と会ったり、出掛けたりする用事がつづいた週で、とはいえ、その間に何の用事もなく一日部屋にいる日もあったのだけど、そんな日も、作品や原稿にはまったく手がつけられなかったし、本さえもまともに読めなかった。(ジジェクみたいに、電車のなかとかで読み流すような本は読めるのだけど、そうではなくて、ちゃんと読んだのは『イルクーツク2』に載っているいくつかの短編だけだった。)
「人と会うモード」とはいっても、ぼくの場合大して社交的になったり戦略的になったりする(できる)わけではないのだけど、それでも、気持ちが外(というか他者や関係)へと向いている時は、描いたり、書いたり、読んだりすることに、うまく入ってゆけなくなる。何か、リズムが根本的に違うというか。(とはいえ、引きこもってばかりいると、それはそれで煮詰まってしまうし、なにより生きていけなくなるので、まずいのだけど。)
例えば、展覧会などをやって、多くの人から作品についての感想を言ってもらったりした後は、いったんその「感想」を忘れるというか、その感想が他者の口から出たことの現前的な強さが薄れるまで、作品に手を入れられなくなる。それは、作品をつくっている時、自分のした行為に対する判定はとても微妙で、常に不安が伴うから、その判定が、ついつい他者の口から出た言葉に過剰に引っ張られ、あるいは、それを根拠として寄りかかってしまいがちになるからだ。他者の口から出た言葉は、それくらい強いものなのだ。言葉というものの強さによって、判定の厳密さが狂わされる。言葉による正しさは、作品としての正しさの根拠にはならない。(だったら、人の意見なんて聞かなくても同じじゃん、といわれるかもしれないけど、そんなに簡単なことではない。それによってしか気付けないことも多々あるし、それが「刺激」や「導き」や「支え」となることもある。ただ、そこに責任を預け、それが「寄りかかるべき根拠(法)」のようになってしまってはマズいのだ。)
●作品(芸術)はコミュニケーションではない、とか言い切ってしまえば、それはスローガンとしてはそれなりに格好いいけど、どうもそうでもない。ずっと以前、一度だけ、友人が先生をしていた知的な障害のある人のための絵画教室の(主に力仕事担当の)手伝いをしたことがあった。そこにはダウン症の人と自閉症の人がいて、ダウン症の人は、それぞれにとても個性的な面白い絵を描くのだけど、自閉症の人は絵を描かない。自閉症の人にはおそらく「表象」という概念がないのだと思うけど、例えば、水入れのなかに絵の具を溶かして、それが水のなかを広がって行くのをずっと眺めていたり、キャンバスの上に絵の具を飛び散らせて、それを眺めていたりする。つまり、何かを表現するのではなく、ただ美しい「現象」を眺めて喜んでいる。そのうちに、水入れの水は濁ってくるし、キャンバスの上も汚れてくる。そうなると、一気にキャンバス上に汚い色を塗りたくって潰してしまい、それでもう絵には興味がなくなる。(ある「美しい状態」をキープしようという気持ちがない。それでも、行為の区切りとして、キャンバスを塗りつぶしはする。)
作品をつくるということはやはりなにかしらの表現する行為であり、そこで自分がつくったもの(あるいは見たもの、あるいは自分自身)を、象徴的-想像的な他者へ向って送り出しているのだということを、この事実は示しているように思う。自閉症の人は具体的な他者に興味が無く、よって象徴的-想像的な他者というシステムも作動せず、表象を他者へと送り出す欲望をもたないので、作品をつくることはなく、ただ、目の前の現象が自身の感覚に与える歓びを純粋に受け止めているのみなのだと思う。
(ぼくはそういう自閉症的な状態をとても美しいと感じるのだが、しかし、自閉症はたんに自閉症であり、それを美-比喩として受け取ってしまうこと自体が、自分が神経症的なものの圏域=転移的空間に属してしまっていることの証拠であろう。とはいえ、自閉症的なものに強く惹かれる程度には、自閉症的ではあるだろう。)
作品とは、何かしらの形で他者へと向けられたメッセージであり、それが具体的な誰かに宛てられ、その効果が性急に期待されたものではないとしても、象徴的-想像的な他者へと向ってなされる語りかけであり、捧げものであるということになるしかない。人は否応無く、他者からの承認を必要とする。象徴的-想像的な他者という言い方が気に食わないならば、それをドゥルーズ的に集団的アレンジメントと言っても基本的にかわらない(集団的アレンジメントって、象徴界-象徴的秩序の多少ニュアンスをかえた言い換えに過ぎないように思う)。
でもこれは、たんに「作品をつくる人」の内部で作動する生産システムの問題に過ぎない。作品そのものの力はまたちょっと別だ。「作品をつくる人」は、象徴的-想像的な他者の作動によって、具体的な他者との関係を一時的に保留することに「耐えられる」ようになり、「一人」になることが出来る。問題なのは、ここで必要とされる象徴的な秩序そのもの(の構築)でなく(勿論、それは重要だが、それは意識的-能動的になされ得るものなのだろうか?)、保留に「耐えられる」、ということの方だ。そして、この保留によって一時的に開かれた時空のなかで可能になる「何ものか」そが重要だということだろう。(単純に、制作は、この保留の時間によってこそ可能になる。)保留の時空のなかで、「現在」や「現状」に従属することのない、別のコミュニケーションの「どんな回路」を開くことが出来るのか、あるいは、(象徴的-想像的な他者へと送られたものが自身の身体へと回帰した時に)孤独のなかで、どんな状態を生きることが出来るのか、ということではないか。
セザンヌが、誰にも認められないまま長いこと絵を描きつづけ、死ぬ直前まで絵を描きつづけていられたのは、セザンヌにとって生きることが、絵を描くという行為を通じてしか開かれることのない何ものかだったからだと思うけど、それと同時に、ルーブル美術館に代表されるような「絵画(美術)」という制度(象徴的-想像的な他者)への信頼が、確固たるものとして成立していたからではないだろうか。具体的なあの批評家やあの画家は馬鹿でしかなくても、「絵画」だけは自分をその一員として正当に評価してくれるはずだ、と。私は大文字の「絵画」と共に絵を描き、「絵画」へと作品を捧げるのだ、と。セザンヌの作品の強さや深さは、大文字の絵画への信仰によっても支えられている。しかし、セザンヌの作品は、決して大文字の「絵画」には回収されない。それどころか大きくはみ出す。だが、その「回収されない何か」が生み出されるためにこそ、大文字の「絵画」が機能する。
とはいえ、現在を生きる者ならおそらく誰でも、セザンヌと同等の強さで、大文字の「絵画」を信じることなど出来ないだろう。それはつまり、(自閉症ではない)誰もがセザンヌと同等の強さで、(具体的な他者との関係を保留して)「一人」になる時間が確保出来ないということでもある。象徴的-想像的な他者の力が弱くなることで、具体的な他者との関係への依存の度合いが大きくなる、というのは、ポストモダンのありふれた光景だろう。具体的な他者との関係への依存が強くなるということは、権威主義から脱し、具体的な他者こそを尊重することを可能とするということであると同時に、一般的には「現在」や「現状」への従属の度合いが強くなり、それを「保留する」ことが困難になる、という傾向があるだろう。
だが実際には、具体的な誰かとの出会いによって現在の保留が可能になることもあるので、そうとも言い切れないのだ。(例えば、ぼくが今でもまがりなりにも絵を描きつづけていられるのは、同じように絵を描いている友人が、数は少ないが、たまたま何人か近くにいたことによるところが大きい。これは否定出来ない事実だ。)おそらく、ポストモダン的な現在における、「現在」を脱出する希望はここにあるのではないかという気もする。ただそれは(「現状-偶然」に多くを負うので)非常に不安定で、こころもとないものではあるが。(よくも悪くも、セザンヌのような強固な一貫性は期待できない。)ともあれ、象徴的-想像的な他者の力が微弱でしかあり得ない(そのこと自体が良いとも悪いとも言えない)現代に、どのようにして保留の時空をつくりだしてそれを保持し、より強く、より深く、「現在」や「現状」から離陸できる状態を生むことが出来るのかということこそが、常に問題となると思う。
「作品」が、具体的な他者との関係-現実的、社会的空間を保留し、そこから一旦離脱したところに立ち上がるもので「なければならない」と言う時、その「なければならない」は何かしらの「法的(普遍的)な正さ」に依存し、そこで要請されるもの(カントが言う様に)ではなく、ただ、少なくともぼく自身の生において、そうである「必要がある」ということだ。なぜかは知らないが、それが「必要」なのだ。
●ということで、今日は雪のなか、画材を買いにでかけた。