02/01/15

●確かに絵画を描くという行為は、多分に自閉症的な快楽、つまり自分の身体に対して自分で負荷をかけ、その負荷を感じている自分の身体を楽しむというような快楽に駆動されるという部分が多いと言えるだろう。(絵を描くことは「視覚的」な刺激によって駆動すると言うよりも、ずっと身体的な「運動感覚」への刺激によっ駆動するものなのだ。)しかしそれだけだったら、描くという行為に自足しているのだから、それを他人に「観てもらう」という必要が生じることがない。しかし実は、絵を描くという行為の最中は、一見自閉症的な快楽に閉じてるような場合でも、そこにはどうしても想像的な他者という審級が働いていて、自閉症的な快楽を感受しつつもその「快楽」を、そして「快楽」による結果を、分かち合い理解してくれる、想像的な他者へと送りつづけている、という機構になっているのだろうと思うのだ。この機構は恐らく、線をひくことの身体的な快楽だけのために描いているような幼児から、画家によるかなり高度なコントロールを伴った描画までを共通して貫いているものなのではないだろうか。例えばセザンヌが、孤独になって田舎に引き蘢った後も、たった1人で自然を相手に来る日も来る日も、驚くべきテンションの高さで制作を持続出来たのも、まったく孤独でありながらも、自分の作っている作品の成果を、常にそれを理解し批評し共に眺めてくれる想像的な他者へと送付していたからなのではないだろうか。そしてその強力な「想像敵な他者」は、若い頃にさんざん歩きまわったルーブルによって、そこにある過去の偉大な作品たちによって形成されたものであるはずなのだ。なにもセザンヌは、自然が彼に突き付けてくる「感覚」を実現するためだけに、その気質によって、それだけで仕事を持続した訳ではない。彼に仕事を持続させたのは「想像的な他者」であり、それは言い換えれば、絵画という媒体の媒介性、過去に存在した無数の他者(画家)たちの幽霊の回帰であるとも言えるのだ。そしてそのようにして作られたセザンヌの作品もまた、強力な幽霊となってこの世界を徘徊している。(これは、「美術史」が対象になっている作品だとか、作品は間テクスト空間にしかない、とかいうこととば全く違うことだ。例えばゴッホやマネの絵と自分の身体を重ねあわせる森村泰正は、むしろゴッホやマネの幽霊との出会いを避けていて、自らの幻想の内部に閉じこもっていると言える。)セザンヌはたった1人で世界=自然と向き合っているのではなくて、セザンヌと世界の間には、無数の他者たちが、あるいは無数の死者たちがざわめいているのだ。
自閉症的な、自分が発した刺激が自分へと戻ってくるような、あるいは自分に固有の幻想や病理によって駆動されているようなものに過ぎないだろう絵を描くという行為は、しかしそこに否応なく入り込んでくる「想像的な他者(たち)」という審級によって、絵画という媒体の媒介性によって、別の次元へと流れ出て接続される。そこでは無数の他者たち、死者たちに直面することが強いられるだろう。例えば、ぼくは知的障害をもつ人の絵を観ることがあるのだが、それはまぎれもなく「本物」という感触がある。つまりそこには自らの固有な身体として生きられている「幻想」や「病理」が、確固たる揺るぎないリアルさで描き込まれているからだろう。しかし彼らは、その揺るぎない「本物」さによって他者との関係を拒絶している、とも言えるのだ。彼らは動かしようもなく「彼ら自身」でしかありえない。ぼくが絵を描くという行為は、それに限りなく近くはあっても、やはりそれとは違って、あらかじめ無数の他者たちに侵されてうつろい漂っているような、いわば「まがい物」としてあるようなものなのだ。絵画についてのものではないが、古井由吉は次のように発言している。(これは以前にもこの日記に引用したことがあるのだけど、とても重要な指摘だと思う。)
《つまり小説に厚みを与えるのに一番いいのはお天気のことです。だけど、お天気のことを本当に現在今のこととしてとらえようとしたら表現は果てしなくなるわけですよね。雨と一言でも言えないし、晴れと一言でも言えない。ましてや小春日和とか、それから寒の入りの珍しくあったかい日なんて。これは全部、実は完全過去なんですよ。大勢の人間たちの見てきた過去なんです。これを私「生前の目」って言うんですけどね(笑)。生きながら生前。この完全過去、死者たちの民主主義ですか....無数の死者たちの生前の目、あるいは無数の死者のことを思うときに生者も分かち持つ生前の目、これが小説の現在だと思うんです。》
「無数の死者のことを思うときに生者も分かち持つ生前の目」、これこそが想像的な他者(たち)のことだと言えるだろう。これは「想像的」とは言っても、実際にテキストや絵画という形で「物質」として存在しているものの媒介によって浮かびあがる幽霊なのだ。そして、想像的な他者(たち)を「象徴的な他者=父」と言わないのは、それが常に多数のさわめくものたちであって、それらは「象徴的な秩序」を支える基盤ではあるのだが、しかし同時に、それらは「象徴的な秩序」をゆるがし、亀裂を入れ、不可能にしてしまうような、錯乱するものたちでもあるからなのだ。(死者たちの民主主義....)
自らの幻想や病理、あるいは、自分の身体に対して自分で負荷をかけ、その負荷を感じている自分の身体を楽しむというような快楽に駆動されて動き出す絵画を描くという行為は、想像的な他者という通路を通って、無数の他者(死者)たちへ突き当たるだろう。それを可能にしているのが、絵画という媒体の媒介性である。しかし、「絵画という媒体」そのものに、そのような神秘的な力が宿っている、という訳ではないだろう。循環的な言い方になってしまうが、「絵画という媒体」を成立させているのは、絵画にとり憑いている「無数の他者(死者)たち」に憑かれた「現在生きている他者たち」によってなのだった。