03/12/23

今日も、制作のため一日籠もっていた。今日は、多少は進展があったように思う。ぼくは、全く素朴な意味で絵描きであって、とにかく手を動かすのが楽しい。作品をつくるとか、そういうレヴェルでなくても、ただ線をひいたり色を塗ったり、何かを描いたりすることのよろこびに簡単に淫してしまうところがある。勿論、作品をつくる、となれば楽しいとばかりは言ってられないのは当然で、苦しかったり辛かったり不安だったり絶望したりするのだけど、それらは基本的には「描くのは楽しい」という楽天性に支えられていると思う。だからぼくの作品は、厳密な意味では作品とは言えないものなのかもしれない。アトリエで行われる孤独な行為は、その行為自体のよろこびによって持続され、その結果は、自分の身体にどのような反応を引き起こすかによって測られるしかない。ぼくにとって絵画とは、「描くという行為」に身を預けてしまった結果として出てくるなにものかのことなのだ。例えば、ぼくが誰に向かってでもない独り言を呟いたとしても、その独り言は日本語の文法に規定されているのだし、日本語を話す多数の他者たちの言葉によって染められているのと同じように、ぼくの孤独な「描くという行為」は、既に先行する無数の絵画作品や美術史によって規定されているし、その結果に対する身体的な反応は批評的な言説やもっと素朴な他者の評判のようなものに染められている。つまり、ぼくという固有の身体が行う「描くという行為」は、ぼくの外側にあるシステムによってあらかじめ形づくられ組み立てられているものであろう。しかしそれと同時に、ぼくが描くということは、他から切り離されたぼく自身の身体、ぼく自身の生の時間のなかにあるほかはなくて、自分の身体によって描き、自分の目でそれを観るということは、全くの孤独のなかで行われる営みとしてあると言えるだろう。自分の作品を他人に観てもらう、あるいは他人のつくった作品を観るということは、そこで、まったく孤独ななかで営まれる生の時間、その孤独な時間のなかで生み出されるある感覚を、多少なりとも他者と交換できるかもしれないという思いによって成立している。しかしこの時、そのような感覚の交換が全く無媒介に成立し得ると考えるのはやはり甘くて、例えば絵画なら、絵画史に関する多少の知識だとか、美術作品を多く観ているという経験のようなものが「媒介するもの」として必要なのは否定できない事実で、そのためには緩やかなコミュニティとしての「芸術通」のような集団が成立していたり、その集団のなかで批評的な言葉が流通していたりしなければいけないし、そこにある種の政治が存在することも不可欠であるだろう、とは思う。しかし、とは言っても、それはあくまでも「媒介」であり、作品とは基本的に、他から切り離された孤独なものとしての自分の目によって観られ、自分の身体によって感受されるほかなく、孤独な営みとしての自分の生のなかで受け止められ、価値を測られるしかないような「感覚」としてあるということが何よりも重要であると思う。