03/12/22

一日中、制作。制作が微妙なところに差し掛かっている時は、自分の作品について言葉では何も言えない。微妙と言うのは、今つくっている作品がこのまま完成すれば、今やっていることが作品の最も重要な部分を形づくることになる筈なのだが、上手くゆかずに、ちょっと別の方向から作戦を立て直すことになれば、それは回り道の一つだったということにしかならないという風に、結果がどう出るか分からない手探りの行為のなかにいるということだ。まあ、作品をつくっている時間の大部分はそのような行為によって出来ているのだけど、それでも特に、画面が客観的にはほとんど「見えて(把握されて)」いないまま予感のようなものだけに導かれて手を動かすような時間があり、そういう時は出来る限り考え(や「目」や「手」)が「言葉」によって引っ張られないように気をつけなければならない。言葉は、複数の感覚の絡み合いとしてあるものに、暴力的に一つの筋道をつけてしまいがちだ。だから言葉は事前と事後には必要だけど、最中に言葉に頼るのは、分かりやすい(単調な、嘘の)解答に飛びついてしまうような危険を孕む。(「ことばをもって音をたちきれ」みたいな明確に知性には、いつもあこがれてはいるのだけど。)自分のやっていることが全く見えなくなってしまえば、作品は破綻し空中分解するしかないが、見え過ぎてしまうと、作品が作品として成立するのに不可欠な飛躍のようなものが望めなくなってしまう。たんなる勘違いかもしれない予感のようなものを、盲目的に、しかし注意深く手繰ってゆくような感じ。