フィリップ・ガレルの『白と黒の恋人たち』をDVDで観たのだけど、この映画の良さは何といってもガレルっぽくない軽さというか「ぼーっとした」感じにあると思う。主役の映画監督は(いつものとおり)明らかにガレル本人を思わせる役柄ではあるのだけど、実存の重さが深く刻みつけられてなどいなくて、ふわふわと頼りなげでぼけっとしている。この映画の印象は、この主演の男(男の子という感じだ)が、とても美しい光のなかでぼけーっとしている、というものだ。(この印象を決定づけているのは、男がヘロインの運び屋をするためにイタリアに行き、ガソリンスタンドで受け取るべき「鞄」を待っているシーンだろうと思う。その側面に光をたっぷりと浴びた大型トラックがスタンドに入ってくるところから始まるこのシーンをぼくはとても好きだ。)この男は、ヘロイン撲滅を訴える映画を製作する資金を得るためにヘロインの運び屋をすることになるのだが、この映画をつくることが何より大事なんだとかなんとか理由づけているけど、それを受け入れる理由は何のことはない恋人の女優が自分と自分の映画を見限って地方巡業に行ってしまうのを止めるために過ぎない。ここにあるのは苦悩や重さではなく滑稽さだとさえ言える。この映画でガレルは、ニコの死、ヘロイン、68年の記憶を繰り返し執拗に主題とする自らの像を、やや引いた位置からユーモアに満ちた視線で捉えているように思う。それを可能にしているのが、この映画では記憶(傷)が過去において刻まれた決定的ななにものかとしてではなく、現在つくられつつある映画として可視化されているということと共に、「文學界」の対談で蓮實重彦がトム・クルーズの「何かに見とれて口をちょっと開けている表情」の魅力について語っているのに通じるような、主役の男のぼーっとした表情の魅力であるように思える。この映画は、過去の悲劇的な記憶を映画として再構築しようとする過程で、記憶の物質的な可視化である撮影されている映画(撮影するという行為)そのものが、それを撮影している人物にまで波及し、その悲劇が現在においても反復されてしまうという構造をもつのだが、この時記憶が反復されてしまうのは、たんに撮影(記憶の再構築)という行為によってだけではなく、実際に撮影を行うためには資金が必要であるという現実的な条件(資金提供者としてヘロイン密売者を撮影に関わらせざるを得ないということ)と密接に関わっているのだということが描かれている。(このような状況で、監督役の男はまったく無力で滑稽な存在だ。)この点も、この映画を風通しのよいもにしている理由だろう。このような点で、ヴェンダースの『アメリカの友人』をふと思い起こさせもるものがある。