03/12/20

アルノー・デプレシャンの『そして僕は恋をする』には、主人公が自動ドアのセンサーに認知されず、後ろから来た3人くらいの女の子たちのグループによってドアが開くというシーンがあった。確かこのシーンは、そのあと、昔仲が良かったが今は反目している人物に主人公が無視されるシーンと連続的に繋がっていたように思う。つまりここでは、自分の存在が世界から認知されていない、自分の存在が透明になってしまったような不安の感覚が造形されていた。(今、このシーンを思い浮かべている時、主人公のイメージが主演のマチュー・アマルリックではなくて、監督のデプレシャンの姿になってしまっていたのに気づいた。)この時、センサーに認知されないという事実は、他者から無視されることの比喩として機能しているのだけど、しかし、センサーに認知されないことによって生じる齟齬や不安の感覚は、他者との関係における存在の否定とは微妙にことなる感覚を誘発するのではないだろうか。例えば、喫茶店に入って席についてもいつまでも注文を取りにこない時に感じる感覚と、自動ドアの前に立っているのにドアが開かない時に感じる感覚とでは、ことなる。ウエイターやウェイトレスに気づかれないということによって生じる不安感よりも、センサーに認知されないことの不安の方が、より深い恐怖(世界から拒絶された感じ)と結びつくように思えてしまう。それは他者が私を認知するレヴェルと、センサーが私を認知するレヴェルの違いに由来するのだと思う。何というのか、センサーのレヴェルでの否定の方が、存在(身体)にとってはより根底的な否定のように感じられてしまうからだ。他人に認められることなんかよりも、実際に存在していることの方がずっと強いとぼくは思っているのだけど、センサーの否定は、その存在しているという事実を物理的なレヴェルで揺るがすもののように感じさせてしまう(実はそれは錯覚に過ぎないのだけど)という「効果」を持ってしまう。

最近の自動販売機は、硬貨の偽造が増えたためなのか、ちょっと古くてすり減っているような硬貨だと、「硬貨を入れ直して下さい」という表示とともに吐き出されてしまうことが多い。ぼくはこういう時に妙に意地になってしまうところがあって、(後ろに人が並んでいない限り)何度も同じ硬貨でやり直してみる。何度もしつこくやり直しているうちに、何かの拍子でピッという電子音と共にその硬貨が認知されることがあり、そのことでようやく自らが(と言うよりその「硬貨」が)存在しているのだというこちらの主張が認められ、聞き入れられた(しかし「誰」に?)かのように感じられるのだろう。だが今日使った10円玉は、何度やっても機械に認知されず、とうとうこちらで根負けして(細かいのがなかったので)紙幣を使うことになってしまった。その10円玉を電車に乗ってから改めてじっくりと見ると、ほんとうに使い込まれてつるつるにすり減った、昭和二十八年と刻印された、周囲にギザギザのついているものだった。