●午後六時四十五分頃。ギャラリーから都営新宿線馬喰横山駅へ向かう途中。同じく駅へと向かう大勢の帰宅するサラリーマンたちの流れに入って歩いていると、細い路地の奥から、ガタイのがっちりしたちょっとこわもて風の、坊主頭で、派手な柄物を合わせて着ているお兄ちゃん(といっても多分三十過ぎてる)が、でかいカートをごろごろと引っ張りながら、携帯電話に向かって関西弁で喋りつつ出てくるところに遭遇した。「ああ、きっとそう思うてはるはずなんやけどな、でもほんとのところはようわからんわ、どうなんやろうか…」とたんに、周囲の空間のすべてと一緒に柴崎友香の小説の内側に入り込んでしまったように感じた。
(関係ないけど、『虹色と幸運』の1回目から4回目までをコンビニでプリントアウトして電車のなかで読もうと思っていたら、プリントできないようにブロックされていた。やっぱ小説は紙の上で読みたいのだが…。)
●作品は出来うる限り正しく読まなければならないが、その正しさとは、それを読む人それぞれが、それぞれに違ったやり方でしか(違った道を通ることによってしか)到達出来ないという種類の「正しさ」なのだ。おそらく、作品の「読み」の多義性があるのではなくて、作品とそれを読む人との「出会い」の多様性があるということなのだと思う。
●口を開けば、「自分の立場を正当化するための言葉」しか吐かない人って、ほんとにつまんねえなあと思う。
●渋谷のGALERIE ANDOで、はい島伸彦(「はい」は草冠に「配」)展(http://www.ando-tokyo.jp/exhibition/ex-current/current-ex/carrent-EX.htm)。一つの画面に二つの色(ないしは、一つの色と地)。その色自体のもつ表情と、色と色との対比の感触によって、そこに浮かび上がるシルエット=イメージは、ぱきっと強く浮き出たり、手元からすり抜けるように遠ざかったり、遙かなもののようにはかなげだったりする。とはいえ、色はあくまでベタッとフラットに塗られ、画面にイメージが描かれるというよりも、それ自身が物であり、平面であることが常に意識されるようにつくられている。だが驚くべきなのは、そうであるにもかかわらず、ただシルエットでしかないものが喚起する圧倒的な情報量の多さなのだ。
例えばウサギのシルエットの背中のまるい形は、そのウサギの毛並みの柔らかさまでもを想起させ、二つの耳の立ち方は、決して描かれてはいないウサギの顔の表情までもを想像させる。いや、想像という言葉は正確ではなくて、ほとんど自動的に(勝手に)表情が浮かんでしまうのだ。目の前に実際にあるのは、あくまで無機質に塗り分けられた平面でしかないのは分かっているに、そこから自動的に(というよりも半ば強制的に)、非常に明快で強いイメージが喚起されてしまう。おそらく、毛並みの一本一本が精密に描画されていたとしたら、このような強いイメージの喚起はないのではないか(その時はおそらく、「今、見えている」という強さに拘束されてしまう)。ではそのイメージはどこにあるのか。目の前の画面のなかにあるのか、それともそれを見ているぼくの頭のなかにあるのか。
シルエットとは一体何なのだろうか。我々は普段、物のシルエットを見ているわけではない。ウサギを見る時、見ているのは、その色であり、毛並みの質感であり、顔の表情であり、動きであろう。つまり、シルエットなどほとんど意識しない。にも関わらず、その全てを欠いた、平面上に静止させられたシルエットを見る時、そこに見えてはいないはずのものが、普段見ている以上に詳細に、周囲の空間や動きまで含めて、生々しく想起される(複数のシルエットが組み合わされている作品は、シルエットそのものが構成されているというより、個々のシルエットがそれぞれ内包している空間性が構成されているように見える)。そして、そのような観る側の興奮とは切り離されて、作品そのものは、あくまでクールに、シンプルに佇んでいる。見えているものと、喚起されているものとのギャップの隙間に、イメージがするっと入り込んで、掴もうとするとするっと逃げて行く。
だいたい、シルエットとか簡単に言っているけど、見えてくるのはまず、二つの色の差異、あるいは二つの質感の差異であって、シルエットそのもの(?)ではない。つまり観る者は、二つの色の差異からシルエットを読み込み、さらにその読み込んだシルエットによってイメージが喚起され、しかし見えているものはあくまでシンプルな二つの色の差異であるという現実に再度引き戻されその感触を確かめる、というような複雑な事態に立ち会っている。
ここに、人の脳が情報を圧縮したり解凍したりするメカニズムの不思議さがあらわれる。複雑な演算が単純な出力を導き、単純な入力が複雑な演算を稼働させる(しかし、ここで選ばれているシルエットは決して「単純なもの」などではなく、「多く」のものが既に含まれている)。おそらくこのことのなかに、絵画が平面であり、二次元であることの秘密の一つが隠されているように思われる。(23日の日記に書いたような、「高画質」に絵画が対抗し得るためのヒントが、ここにもあるように思う。たった一本の線が、ものすごく多くの事柄を含むことも可能なはずなのだ。それはミニマリズムとは根本的に違う何かだ。)
●気づいたらフランス映画祭は終わっていた。でも、アルノー・デプレシャンの新作は日本公開が決まってるみたいだから、まあいいかと思う。アラン・レネの新作はちょっと観たかったのだが。
映画への関心はかなり後退してしまっているけど、デプレシャンへの関心は増すばかりだ。『キングス&クイーン』は、もしデプレシャンが存在しなかったら、映画でこんなことが可能だとは誰も想像できなかったんじゃないかというような傑作だと、DVDで見直す度に何度でも思う。そのような意味で、ぼくのなかではリンチの『インランド・エンパイア』と双璧をなす。デプレシャンの存在を教えてくれたという点だけでも、学生の頃に読んでいた「カイエ・ジャポン」誌に感謝したい。
●実は以前に、こんな原稿を書いています(http://www.boid-s.com/old/contents/review/004.htm)。これは、依頼されて書いたほとんどはじめての原稿で、批評空間のWebCRITIQUE(http://www.kojinkaratani.com/criticalspace/old/special/2001.html)とほぼ同時期の2001年のことでした。