●物語というのは、ちょっと気を許すとすぐに恋愛の方へひっぱられてしまうと誰かが書いていたのを読んだ気がするのだが、それともう一つ、物語はちょっと気を許すとすぐに「対戦(対決)」の方へひっぱられてしまうと思う。恋愛も対戦もなしで物語を成立させるのは困難であろうし(しばしば、恋愛と対戦とは別のものではなかったりさえする)、逆に、簡単に恋愛や対戦に着地する物語はバカっぽい。そして、ここで物語とは、まさに「現実」を動かしている力のことでもある。だとすれば、決して安易には物語に「対戦」を持ち込まないということは、そのまま、そのような現実へ向けての働きかけでもあろう。
●格闘技というもののもつ矛盾。格闘家が実際にやっていることは、ものすごい量の情報を、ものすごい速さで処理して状況判断(駆け引き)をし、それをもとに、ものすごい精度で制御された身体運動へと変換してゆくという、ものすごく複雑かつ高度な行為であろう。それは時に崇高ですらあろう。しかし、そのような複雑な行為を支えているモチベーションは、ものすごく単純な「対戦型」の物語だったり、幼稚な「俺こそが一番」みたいな感情だったりする。実践する格闘家は、常にこの相矛盾するものを自身の身体に同居させているという点で興味深く偉大であるのだが。
例えばゲームをやらないので良く知らないが、対戦型ゲーム(格闘型?)のようなものでもそれは同様なのだろう。ゲームのプレイヤーの行っている情報処理や行為はきわめて複雑で、それは脳や身体の高度な制御や演算を必要とする高度な行為であろう。であればおそらく、非常に高度な快楽を伴うのだろう。しかし問題なのはそれが「対戦型」という非常に幼稚な出力形(表現形)をもってしまうということだ。複雑な演算処理が、単純な出力形へと着地するというのは、人間の脳がする演算の基本形ではあるにしても。
ここで、よく知りもしないゲームの悪口を言おうというのではない。そうではなくて出力形(表現形)としての「対戦型」の想像力の貧しさについての話なのだ。
●芸術はその対極にある。だから、芸術とかアートとかを、プロレスとかゲームとかそういう、対戦型のものの比喩で語ることは根本的に間違っている。世の中には、常に緊張感を保ち、ガチンコで何かと戦い続けていないと「生きている」という実感を得られないというようなタイプの人がいることはぼくも知っている。しかし、すべての人がそうであるわけではないし、そうであるべく努力すべきだというのも間違っている。そういう人が、果敢に闘い続ける人生を送ることには敬意を感じもするし、その結果、成功を収めたりのし上がって偉くなったりすることに対しては、ぼくには何の文句もないし、そもそもそこにはまったく興味がない(対戦型の思考は、「他人を蹴落とすこと」が「自分への挑戦」であるかのような錯覚を生みがち)。そういう人達とはなるべく無関係に生きていきたい(なんとか無関係に、自分が生きて活動することの出来る最低限の隙間をみつけたい、つくりだしたい)と思ってはいるけど。そして、そのような意味での「対戦」と、芸術の高さや理念とは何の関係もないということだけははっきりしている。
●自分の作品が、疲弊した知的な労働者のための肘掛け椅子のようなものであってほしいと言ったマティスを、ぼくはすごく尊敬している。マティス自身は、自分でも抑えられない激しい力に突き動かされて制作しつづけた人で、当然「ぬるい」人ではまったくないが、しかし、けっして「ぬるさ」を否定したりはしなはずだ。
ドイツ占領下の時代に、妻や娘が対独抵抗運動に身を投じ、安否さえ定かでない時にも、アトリエでうつくしいモデルを描いていたというマティスを、ぼくはすごく尊敬している。マティスは、自分には、ただ絵を描くことによってしか、最悪の状況や戦争に抗することは出来ないと考えていたのだと思う。それも、「ナチスや戦争に反対する絵」を描くのではなく(それは半ば敵に染まるということだ)、そんなものなどとまったく無関係に、たんに「よい絵」を描くことによってだけ。
だがそれは決して、パリコミューンに参加したクールベを否定するということではない。その点(世界に対するポジティブなはたらきかけについて真剣に考える)に関して(対決的な論争を好み、挑発的に行動した)クールベマティスに齟齬はまったくない。「そういうことではない(対戦型の物語では考えない)」ってことこそが、芸術において重要なのだ。
●芸術家など、100人いれば99人までが(社会的にみれば)ダメな奴に過ぎないとしても、重要なのは、その99人みんなが芸術のおかげでなんとか生きてゆける(お金の話ではない)ということなのだ。芸術は、お金や資源、食料などとは違って、(ある意味太陽のように)無尽蔵な富で、一枚の絵を百人の人が観たからその分目減りしてしまうということはないし、ある小説を百万人が読んだからといって次の人はもう読めないということもない。必ずしも分配が平等ではないという問題はあっても、誰かが使ったら消えてしまうというようなものではない。
もし、(世俗的な意味での)「アートの世界」が、「ガチンコ系」のメンタリティーをもつ人しか生き残れないような環境になったら、それは本当に最悪だ。多くの人が行き場をうしなってしまう。(自分のことを優秀だと思っている)闘いたい人が闘うのを邪魔するつもりはまったくないが、それによって世界を強引に闘いの場へと塗り替えようとするなら(「闘わざる者は去れ」みたいな)、あくまで「ぬるく」あることで、それには抵抗したい。芸術はむしろ、そういう人たちの味方であると信じる。
繰り返すが、作品に向かう時の緊張感や真剣さは、あるいは作品そのものの深さや凄みや高さは、つまり作品を信じることは、ガチンコの「対決」や「対戦」ということとはまったく関係がなく、むしろそのようなものの対極にあり、つまり決して「対戦」などしないということのすごみの方にあるはずだ。
●余談だが、何日か前のニュースで、東大の卒業式で卒業生が「がんばった人がむくわれる社会にしたい」と言っているのを聞いてなんとも嫌な気持ちになった。これ以上、人に「がんばる」ことを強いるというのか。いや、言葉として決して間違ってはいないと思うけど(だからこそ困ってしまうのだが)、その「がんばる」に込められた「対戦型」のニュアンスがすごい嫌だった。