プロ野球の中継をテレビで見ていた。未知の若い選手が打席に入った。アナウンサーが告げる選手の名前を聞き、以前テレビでよくみた、その選手と同姓の有名人のことをふいに思い出した。その有名人のことを意識したのはすごく久しぶりだった。芸能人ではなくいわゆる文化人で、七十年代や八十年代によくテレビに出ていた人で、その、はにかむような笑顔や仕草、口調を、ありありと思い出した。特にファンだったということはなく、ただ、よく目にしたということだが。そしてそのすぐ後、その有名人が既に亡くなっており、今はこの世の中にいないということに思い至った。今、あんなにもなまなましく思いだしたあの人は、最近テレビでみないというだけでなく、もう、この世にいないのだ。そういう時に、死(それはつまり、「自分の死」ということだ)を強く、リアルに意識する。死というより、自分が死んだ後にもつづいているこの世界のことを思う、と言うべきか。あの若い野球選手は、自分と同姓の有名人がテレビに出ていたことなど、まったく知らないのだろう。
●把握できないほどに複雑な状況(あるいは、意識化出来ないほどに複雑な脳の演算)を、把握可能でシンプルな形に縮減-統合する時に働くのが物語の力で、つまり我々の意識や知覚そのものが既に物語で出来ている。だから、物語は現実を表現するものではなく(現実の内部にあるのではなく)、現実に先行してあり、物語こそが現実を構成する(物語の方が現実よりも大きい)。言い換えれば、人が現実を構成するためのアルゴリズムのことを物語と言う。勿論ここで言う現実とは、現実そのものの(外的環境そのもの)ことではなく、我々がそれを「現実」だということにして、それを仮構することによってその内部に住んでいる現実のことだ。人が「現実を見ろ」と言う時、その現実は、その人がそう信じている仮構されたものの枠組みのことだ、というような現実。
だからこそ、物語に係わるということは現実に係わるということであり、物語の抗争こそが現実的な政治であり、物語をつくる力(物語を変える力、物語を要約する力)というのは、そのまま現実をつくる力、現実はこうだと言いくるめる力、つまり権力であり暴力である。
しかし、芸術が取り扱うのはそのような意味での物語とはすこし違う。芸術は、物語の次元では現実に係わりをもたない。把握出来ないほどに複雑な状況(目に見えないもの)を目に見えるようにするのが物語だとすれば、芸術は、目に見えるような形では現実に係わらない。物語が現実に先行し、現実よりも早く作動するとすれば、芸術は、その物語よりもさらに早く、物語よりもさらに前に作用する。目に見えないものを、目にみえないままで取り扱い、目にみえない次元ではたらきかける。既に、物語-現実になったもの、意識となり、知覚となり、形となってしまった後では遅すぎる何かに対してはたらきかける(既に目にみえるものとなったものを構成するのでは遅いのだ)。だから芸術のはたらきかけは、目に見えない、つかみ所のない感触としてしかあらわれず、形象とはならず、決して一般化されない(抽象的分析によって事後的には説明可能だろう)。だからそれは、自分の身体を実験場として、探ってゆくしかない。くどいくらい繰り返しているけど、一般化されないのは、それが「私だけの実感」だからではなく、「世界の感触」が限定された「それぞれの私」を通してしかあらわれないからだ。物語-現実-認識となった時には既に「見えないもの(隠されたもの)」であり、かすかな感触としてしか残ってなくて、その存在の検証は出来ないのだが、芸術はそのような(幽霊のような)目にみえないところで、現実の構成-統合に係わり、そのような形で現実に作用している(だからこそマティスナチスに抗してうつくしいモデルを描く、それは現実逃避ではなく、現実の構成なのだ)。芸術は、物語とちがった次元で現実を構成するためのものだ(現実-幽霊、現実-デジャヴというような形での現実へのはたらきかけ)。芸術(個々の作家や作品)によってしか構成されない世界-現実の有り様があるのだ。それは、物語によって要約することは出来ない(要約すると消えてしまう)。
決して物語を批判するというのではなく、たんに、それとは別の有り様であるということ。
そんなあやふやなものに何の意味や力があるというのか、と言う人がいるのも納得出来る。そんな鬱陶しいことをごちゃごちゃ言い立てやがって、気に障る、とか。しかし、ぼくにはそれこそが重要な問題だと思える。