2023/08/12

⚫︎ぼくが小説で書こうとしていることは、ほぼ「ニュートン・カント的な時空間では成り立たないような経験を書く」ということに尽きているように思う。勿論、ニュートン・カント的な時空間に収まらなければなんでもいいということではなく、そこに自分なりの生のリアリティが付与された経験でなければならないが。自分の身体を変えるためには、そもそもその身体が置かれている器である時空間を変える必要があり、時空間さえ変われば身体のありようも自ずと変わる。

とはいえ、言語(世界を認識する言語的な網の目)を変えれば時空が変わると考えているのではない。言語は、我々の身体の奥深くにまで食い込んでいるが、物理的な力は持たない。言語によって変えられるのは、身体が現実に接する時の触れ方や構えであり、現実から受け取られた経験の構成のされ方であろう。

これは、「物事はなんであれ受け取り方次第」みたいなことではない。我々は誰でも、自分が出会った出来事や経験が、我々が通常世界を説明するときに用いている「既にある」因果的説明格子による説明には収まらないことを知っている。我々は、我々が既に知っている「受け取り方の形式」には収まらない経験を常に経験しているからだ。それを、大体のところざっと要約すればこんな感じ、として、既成の説明体系に収めて、とりあえずは納得している(その代表例がニュートン・カント的な時空間の因果律だろう)。だから「受け取り方」が変われば世界(経験)が変わるのではなく、その都度現れる一つ一つの経験が、その都度都度で「受け取り方の変更」を要請していると言うべきだろう。

身体が基本として一つの檻としてあるとすれば、それは、既成の因果的説明体系や物理法則によってできている。身体はいわば、「過去の地球」の経験値の集積であろう。しかし「新しい経験」は常に身体をはみ出る。それは、経験が「外としての現実」からもたらされるからだろう。

(物理法則は、「外としての現実」を解釈するための異様なまでに精緻で整合性の高い説明体系であるが、「外としての現実」そのものではない、とする。)

経験が常に身体をはみ出すとしたら、新たな経験をする度にその都度、その経験にできる限り近似した身体(経験を身体化するために必要な身体)の「形式」を作り直す必要がある。小説は、経験を説明するのではなく、その都度での経験をできる限り正確に受け止められるような「身体の形式」を作り出そうとするものではないか。

そして、それが言葉で書かれるということは、そこにいくばくかの共同性への期待がある。これは、個別の個の行為(経験)が普遍へとつながるというよりも、わたしはこうだけど、あなたはどう ? という問いかけのようなものとして、とりあえずある程度親しいものに向けて提出されるのではないか。

(この「親しい」は、実際に親しい、近い関係にある、ということだけではなく、自分と親しいはずの、いつかどこかにいるかもしれない誰か、ということでもあることが重要だが。)