ストローブ=ユイレ『セザンヌ』『ルーブル美術館訪問』を観た

紀伊国屋書店から出ているDVDで、ストローブ=ユイレの『セザンヌ』『ルーブル美術館訪問』を観た。
●『セザンヌ』を観ていて感じたのは、絵画と映像(実写)との、とことん混じり合わない(接点のない)様といったものだった。例えば、セザンヌの『ロザリオをもつ老女』が写され、この絵についてセザンヌフロベールの老婆との関連について述べていることから、それにルノアールの映画『ボヴァリー夫人』の「農業共進会」のシーンの引用が接続されるのだけど、セザンヌの絵は素晴らしいし、ルノアールの映画も(本当にこれこそが映画だという感じで)素晴らしいのだけど、この両者には何の関係も見出せない。セザンヌフロベールルノアールフロベールの間には、何かしら共振するものがあっても、セザンヌルノアールの間にそれを感じることが出来ないのだ。(つまりそれは、セザンヌストローブ=ユイレとの断絶でもある。)考えてみれば、絵画とはある意味、徹底して主観的なもので、画家は「自分の目」で見たものを、自分の目による判断で絵として組み立てるしかないし、それを観る者も、その絵(に描かれた何事か)を自分の目で観るしかない。一方、実写映像は、科学的(化学的)装置を媒介することで、ある主の客観性を確保出来る。つまり、映像は世界を「記録」することが出来るし、世界のあり様の「証拠」と成り得るが、絵画が示すのは、せいぜいそれを描き、それを観る者の「感覚」のあり様でしかない。画家は、自分が世界から見て取ったものが、世界に由来するのではなく、自分の目や脳の異常(あるいは偏り)によるものでしかないのではないか、という不安から逃れることは出来ない。画家は、レンズが何ミリで、フィルムの感度がどれくらいで、露出計がどのような値を示しているのか、というような外部の参照点をもてない。つまり画家は自分の身体によってしか世界と関わることが出来ない。(実在する花と、その花を描いた絵との関係を保証するのは、それを描いた画家の存在しかない。)しかし、実写映像というのが画期的なのは、自分の身体の外にある、それとは切り離された装置である「カメラ」や「フィルム」によって像が定着されるということであり、そのメカニズムが身体とは切り離されていることによって、客観性が保証されるというところにある。そしてこの違いは、『セザンヌ』という映画では決して交点をみいだすことはない。セザンヌの描いたサントヴィクトワール山と、『セザンヌ』という映画のサントヴィクトワール山の実写映像とは、この映画では徹底的に分離しているように思われ、その関係や繋がりを見出すことが困難だ。
●『セザンヌ』が、絵画と映像の分離についての映画だすると、『ルーブル美術館訪問』は、映像が常に絵画に寄り添い、そして映像と絵画とがほんの一瞬交差する、という映画のように思う。この映画では実景のショットが3つしかない。(冒頭のルーブル美術館、中間のセーヌ川とその手前の木立、ラストの森のなか。)それ以外は、美術作品を撮ったショットと、ブランク(見ない、あるいは見えない)を示すような黒画面だけで出来ている。ガスケのテキストをもとに、ルーブルの絵画や彫刻をセザンヌとともに観てまわるように構成されたこの映画は、セザンヌの語り(テキスト)に導かれて、次々と絵画作品が画面に召還されるようにみえる。この映画には、絵と、絵に描かれた実景の映像との併置はなく、『セザンヌ』にはあった、セザンヌ自身の作品やセザンヌ自身の姿(の写真)の映像もなく、ただ、テキストと作品(まあ、作品の「映像」だけど)との関係のみで進行してゆく。不在のセザンヌの「語り」によってルーブルにある作品のいつくかが選ばれ、関係づけられ、物語が組み立てられるこの映画では、『セザンヌ』にあった、絵画と映像とのあからさまな分離(混じり合わなさ)は露呈しない。それだけでは、この映画はたんによくできた教育映画としか思えない。しかし、この映画で驚くのは、不在のセザンヌ(セザンヌの作品)が、実景のショットのなかにふっと現れるかのように感じられることだ。セザンヌの語りとともに(語りに導かれ)何枚もの絵を観てきた後、途中に唐突にセーヌ川とその手前で風にそよぐ木立の映像(実景)があらわれる。その時ぼくは、あっ、これこそがセザンヌだ、と感じたのだ。風にそよぐ木立の揺れる速度や、セーヌの川面に浮かぶ船の速度などから、このショットは高速度撮影(スローモーョン)なのではないかと感じたのだが、しばらくして画面の右下に現れる人物の動きをみると、そうではないのかもしれないと思う。どちらにしても、見ている者の感覚がふわっと揺さぶられるようなとても不思議な速度感で、この映画全体としてもやや浮いているように見えるこのショットにはまぎれも無く「セザンヌ」があらわれているように感じられ、つまりここで絵画と映像がほんの一瞬だけ交錯するのを感じるのだ。(このショットは実際にはセザンヌとは何の関係もないのだが、それでも、『セザンヌ』のなかのサントヴィクトワール山の実写映像などよりもずっとセザンヌ的だと思う。)このショットがあることによって、この映画は、たんに西洋美術を啓蒙する教育的な映画というだけでない、「映画」になっていると思う。