●ある雑誌を眺めていて、そこに載っていたある作家のエッセイを読んで驚いた。それは、その筆者がある「抽象画」の「個展」を観に行った顛末が描かれているのだけど、その個展とは、どう読んでも(今年の4月から5月にかけて川崎でやった)ぼくの展覧会のことだとしか思えないのだった。(誤解で、たんなる思い込みだったらすごく恥ずかしいけど。)そのエッセイは、展覧会そのものや作品について書かれていると言うよりも、「展覧会を観に行く」という過程(行為)全体から、感じられたり考えたりしたことが書かれているので、そこで具体的にぼくの名前が書かれていないことは理解できるし(そのことをどうこう言うつもりはまったくないし)、ということはつまり、このような場で、あれはぼくの展覧会のことだ、と主張するのもどうかと思う(だから、ある雑誌、ある作家、という書き方をした)けど、でも、例えば、次のように書かれた部分が(もし、本当にぼくの作品について書かれたものだとしたら)素朴に凄く嬉しかったので、書いてしまったのだった。
《家を建てるときにはふつう、土台を作って、次に柱をしっかり立てて、その柱をたよりにして壁となる板を打ち付けていくものだが、そういう「土台」「柱」「壁板」というはっきり分かれた部分をもたないまま、家みたいなものを、もわっと漠然と全体的に作り上げていく....、この絵はそういう感じとでも言えばいいのだろうか。》
こういうところをちゃんと観て、きちんと感知してくれる人は(いわゆる「美術の専門家」にも)あまりいないので。
●普通は、「土台を作って、次に柱をしっかり立てて...」というような作り方が、きちんとした「構築的」な作品のつくり方で、「もわっと漠然」としたやり方は、「日本的な(イマジネールな)」曖昧さ」、だとか言って批判されたりするのだが、ぼくはそれには全く納得出来なくて、《「土台」「柱」「壁板」というはっきり分かれた部分》によってつくられる作品が、ぼくにはひどく「粗っぽい」ものに思えてしまう。つまり、まず最初に(前もって)基本的な「構造」があって、その上に、装飾だとか表情だとか細部だとかニュアンスだとかが「追加」されるのでは、構造とニュアンスが分離してしまうのだ。と言うか、構造が主でニュアンスが従、あるいはその逆、になってしまう。(最近のヨーロッパの美術家の作品が、ぼくには皆「大味」で「粗い」ものに思えてしまうのは、そういう理由からだと思われる。例えば、セザンヌマティスは、決してそのような作品の作り方はしていない。)実際に、作品をつくるには時間がかかる。つまり、キャンバスという「物」は、作品をつくるより「前」から存在するものだし、そのキャンバスに、最初に置いたタッチと、最後に置いたタッチとでは、時間の差(順序、先と後)が存在する。しかし(とりあえず「出来上がった」)「作品」では、それら全てが「同時」に、互いに分ちがたく結びつき、密接に、そして同等に関係し合っているような「構造」が実現していなければならない、とぼくは思う。つまりそのような「構造」とは、土台があって、その上に細部やニュアンスがあるというものではなく、土台も柱も細部もニュアンスも、全て同時に(同等に)存在している、というようなもののことだ。だから、作品が(とりあえず)「完成した」と思えるのは、それぞれ時間差があるなかでつくられた様々な細部が(つまり、作品をつくる「前」からあるキャンバスも、最後に置かれたタッチも)、緊密に関係し合うことで、あたかも「同時」にあらわれて、「同等に」結びついて構造をつくりあげているように「見えた」時が(それが、その絵画作品に「空間」が発生する、ということだと思う)、その作品の(あくまで「とりあえずの」だが)完成だと言えるのだと思う。そのような作品をつくるためには、先が見えない、しかも、やり直しもきかない、というような状況でつくることが必要だと思うのだ。