●夜、「百年」に行って、展示に、ドローイング19点と、おまけとして、制作のための資料の一つである写真12点を追加してきました。4点のタブローとあわせて、展覧会っぽい感じになりました。画廊ではなく営業中の古本屋さんなので、画廊のようには展示出来ず、でも、だからこそ、画廊ではやらないような形の展示が出来たと思うので、ぼくとしては良かった。写真、ドローイング、タブローが同時に展示してあると、制作プロセスの種明かしっぽくなってしまっていてどうなのかという気もしますが、だから、「わかりやすい」感じではあると思います。こういうことを今までやったことはないのですが、「わかりやす」ければいいというものではないとは思いますが、それは逆に「わかりやすい」からダメということでもないはずだ、と思い、そうしました。
というわけで、古谷利裕「線と色と支持体」展(http://100hyakunen.com/?mode=f3)は、作品が出そろいました。吉祥寺の「百年」(http://100hyakunen.com/)で4月5日(月)まで展示されているので、よろしくお願いいたします。
●「線と色と支持体」というタイトルの意味について。
ここで展示されている作品は、大別すれば線の仕事と色彩の仕事とに分けられると思います。そしてその二種類の仕事が、いくつかの異なる支持体(キャンバス、合板パネル、段ボール、色の異なる紙)の上になされています。それらは、互いに交換可能なものとしてあります。つまり、紙に色彩でなされた仕事がキャンバスに色彩の仕事へと変換され、キャンバスに色彩がキャンバスに線、合板パネルに色彩へと変換され、それがまた段ボールに線、紙に線へと変換されていきます。これらの作品はつまり、同一の機能をもつ機械が、一部の部品(素材)を入れ替えて組み立てられているような感じです。だからこれらの作品たちは、同一の主題や形態のバリエーションや展開としてあるのではなく、互いに異なる要素を入れ替えて構成された、同一の機能をもった複数の装置たちである、ということになります。
「線+キャンバス」「「色+キャンバス」「色+合板パネル」…。合板パネルはキャンバスの代替物ではないし、色彩を線によって置き換えることは出来ません。つまりそれらは、それぞれが異なる原理や体系をもった異なるものたちです。ただ、複数の線の絡み合いによって実現されるものと、複数の色彩の塊の関係によって実現されるものとが、同等の「構造的な複雑さの感触」を獲得することは可能だと考えます。キャンバスの上に描かれた線の絡み合いによって実現されるものと、合板パネルの上に描かれた色彩の塊の関係によって実現されるものとの間にも、同様のことが言えるでしょう。色と線とを入れ替え、キャンバスと合板パネルとを入れ替えながらも、そこで目指されている「構造的な複雑さの感触」はおそらく変わらないはずです。つまり、線の絡み合いが、それの「正確な等価物」である色彩の関係へと変換される、というような。
だから、展示されているのは、異なる要素によって、異なるかたちとして組み立てられた「等価物」たち、ということになります。
しかし、ここで、おおもとにあって作品たちの生成を可能にし、作品を内的に律しているはずの「構造的な複雑さの感触」(目指されているもの)の同一性を保証するものはどこにもありません。ぶっちゃけて言えば、それを描いている私が一応の納得を得られた、という以上の根拠はありません。ただ、私にとってその感触を導いてくれるものたちがあり、それが、葉の生い茂る植物のもつ視覚的な複雑さです。展示されている写真は、私がその複雑さの感触を確かめるための手がかりのようなもの、規範になるようなものの一つであって、それを見て描いているわけでははありません(描く時は写真は見ません)。「plants」のシリーズは、植物を描いているというよりも、植物の「教え」によって描いていると言えるでしょう。