●サイコロの目が次に何をだすのかは原理的に予測できない。これがこの世界の基本ルールだろう。サイコロには謎はない。サイコロは1から6までの六種類以外の目を出すことはあり得ない。そして、それぞれの目が出る確率は等しく六分の一ずつである。分からないことは何もない。それでも、次に何が出るのかは予測できない。
DNAを調べればその人がどのような病気にどの程度かかりやすいかが分かってしまう。月より遠くへ行ったことのない人類が、この銀河のことや他の銀河のことや、その分布や歴史、宇宙のざっくりとした年齢についてまでも、ある程度分かってしまっている。あるいは、人類が自らの手で人類の超える知能をつくりだしてしまうかもしれないという勢いだ。
それなのに、こんな単純なサイコロの次の目が予測可能になることは、原理的にないとされる。勿論、人類を超える人工知能でさえも。
ここに、「個」というものの意味がかろうじてうかがえるのではないか。例えば、六万個のサイコロを振れば、どの目もだいたい一万くらいずつ出るだろうと容易に予測できる。それが、適度にランダムに散って分布することも。でも、ここにあるこの一個のサイコロの次の目は、六分の一以上の精度では予測できない。
●以上のことは科学的、合理的な観点からのことだ。一方、オカルトを導入すれば、サイコロの目の予測や操作が可能であると言えてしまう。例えば、人が頭で考えた通りの目を出すサイコロを「技術的につくりだす」ことは充分に可能だろう。これは科学技術だ。でも、オカルトを導入すれば、種も仕掛けもないサイコロを自由に操ることができることになる。
サイコロの目の予測が出来ないことは、世界の公平性の根拠となる。しかし一方、「わたしの生」という次元では、サイコロには思った通りの目を出してほしい。あるいは、「出せる」と「信じる」ことが必要なときがある。わたしが「わたし」という場に限定されている限り、この思いは消えない。例えば、公平性が信じられているからこそ、人は宝くじを買う。くじのどの一枚も、等しく一等となり得る可能性をもつと信じられている。しかしそれでも、かつて一等が出た売り場には長蛇の列が出来る。そこでは、確率的な公平性とは別の、「引き」の良さや運や念や祈りといった、スーパーナチュラルな力や不均衡(不公平)性の存在が信じられている。原理的に公平(科学)だからこそ、「わたしのこの思い」がそこに不均衡を生じさせ得る(オカルト)、と。何十万分の一という確率を、「わたし」という固有の位置の下へと祈りによって引き寄せたい。このような、科学とオカルトのダブルスタンダードは、人が個として、「わたし」として現象する限り、消えないのではないだろうか。
●おそらく、だからこそ科学というディスクールの場では、オカルト的なものは十分な注意を払って排除されなければならないのだろう。そのための手段や手続きは厳密でければならないのだろう。とはいえそれは、科学というディスクールの場では、という限定がつく。科学者が、良い実験結果を祈り、ゲンを担いで出勤の時に毎朝左足から靴を履く、ということは普通にあり得る。実験の良い結果と、左足から靴を履くことの間の相関関係は、公的には信じられていない(信じられてはならない)と同時に、その人の生の奥深いどこかで信じられてもいる。
●科学(合理)的には予測(操作)できない、が、オカルト的には予測(操作)可能性がある、という出来事の近傍に「個」が生まれ、「わたし」が生じる、というのは、ちょっと乱暴すぎるだろうか。
(それは要するに、偶然を必然へと事後的に転化する装置が「わたし」だ、ということだとも言えるけど、でもそれは「合理」の側から見た一方の見方だろう。)