小林正人「ライトペインティング」

●昨日、シュウゴアーツで観た小林正人の「ライトペインティング」(http://www.shugoarts.com/jp/kobayashi.html)について。九十年代のはじめ頃からずっと、小林正人の作品に強い関心と尊敬とを持ちつづけている者からすると、ここで展示されている作品に対して複雑な思いを抱く。最近の作品としては、ある意味すっきりしていてとても良いもののように思える。しかし、これらの作品は、小林正人本人が、今までの小林正人の作品の成果を、うまく救い上げて作った作品のようにも見える。そのような作品のあり様自体が、今までの小林正人を裏切るようなものになっているようにも思えるのだ。
小林正人の作品の特徴ともいえる、歪んだ(というより解体された)フレームや、波打つ画布は、あくまで「描く」ことの結果として出て来たものではなかっただろうか。描かれる像と、それを支える支持体とは、同時に成立しなければならないし、作品は複数の物の付け足しによってではなく、一つのもの(純粋な単体)として成立しなければならない、という、小林正人の独自のプラトニズムは、像を描くことをきわめて困難とし、支持体を壊滅的なまでに歪ませ、結果として絵画をどこまでも解体して「物」に近づける。それは時に、ほとんど持ち運び出来ないインスタレーションのようなものとなり、時に、過剰な演出によって成り立つシアトリカルな舞台装置のような作品に近づくという危険に陥る。しかしそれらはいずれも、絵画をあくまで純粋な「描く力」によって成り立たせようとする、強引な力技の結果としてそうなるのであって、時にあからさまに作品が「ヤバい」様相を見せようと、それは頑固なプラトニズムと、実際に作品が「物」としてしかあり得ないこととの分裂の、極めて高い緊張を孕んだ表現であることによって、それは説得力をもっていた。
しかし今回の作品は、「描く力」抜きで成立している。おそらくあらかじめ銀色に塗られた画布を、歪んだ木枠にどのように張り付けるのか、ということのみが問題となっている。ここでは描くことのかわりに、フレームの歪みと、画布を歪んだフレームに留めることによって生じる緊張、結果としてあらわれるドレープの有り様、によって作品が成立している。つまり「描く」ことが消えている。
いや、実際に絵の具で描いてゆくことだけが描くことではなく、ここでは、画布を「張ること」こそが「描くこと」なのであって、ここでより一層、描くことと、支持体を組み立てることと同時性が、より高い次元で重なるようになったのだ、ということなのかもしれない。小林正人の絵画が、一貫して「光をとらえる」ことを目的としているのならば、分厚い絵の具が塗り込められ、フレームが壊滅的なまでに歪んでしまっている時期の作品よりは、ずっとすっきりして、作品として普通に「良いもの」となっているとは言えるだろう。
実際、手を使って絵の具を重たく塗り込めている作品よりも、より直接的に、「手で光をつかむ」ということが実現されているとは言えるように思う。画布を引っ張ったりたわませたりしつつ、フレームにネジで留めては、フレームの歪みを動かしたり、ネジを外し、画布を留める位置を変えたりすることを通じて、「手で光をつか」もうとしているプロセスが、作品を観ていて生々しく感じられる。だとすると、ぼくの当初の疑問は的外れであるかもしれない。これは「描く」ことの新しい位相を、小林正人が掴んだのだ、ということなのだろうか。
いずれにしても、最近やや停滞気味だと感じられた小林正人の新たな展開が、きわめて興味深いものであることは間違いないと思われる。今回の作品はあっさり上手く出来過ぎている感じで、冒頭でぼくが書いたように、一見、自身のいままでの作品の「おいしいところ」を上手く掬っているような作品にも見えてしまうのだが、必ずしもそうではないかもしれない。(作品から感じられる「光の感触」としては、『絵画の子』以前の、初期の『空戦』の頃の感じに近づいているのかもしれない。)