●朝目覚めて、コーヒーをいれて飲みながらしばらくぼーっとする。その後原稿を書く。昼前に、散歩がてら、一駅分歩いて用事を済ませ、帰りに都まんじゅうを買って、歩きながら食べる。五月とは思えない、じっとりと湿った空気。部屋に戻って、一時間くらい昼寝した後、ノートパソコンを持って喫茶店に行き、原稿を書く。夕方、帰るついでに買物をして、部屋で夕食と一緒にワインを飲んで、すぐに寝る。変な夢をみる。就職した会社が、勤めはじめて三日くらいで倒産して、明日からこなくていいと言われ、身の回りを片付けた後、同じ部署の人たちと打ち上げみたいに飲みにゆく。アルバイト以外で働いたことがなく、そんな職場っぽい経験など一切ないのに。三時間くらいで起きて、夜中から朝方まで、また原稿を書く予定。この日記はその合間に書いている。
●それでも、そんななか『電脳コイル』24話~26話をDVDで観た。(以下、ネタバレ。)
物語というものが何かしらの形で着地しなければならない運命をもっている以上(着地しなければ「向こう側」に置き去りにされてしまう以上)、結局、こういう風に終わるしかないのかなあ、と思った。
絶妙なバランス感覚によって保たれたテンションは最後まで持続するし、とても賢明な決着のつけかただとは思う。ただ、『電脳コイル』の空間のリアリティを支えることの一つに、それが内側へ向おうとする方向をもつと、いつの間にか外側へつながってしまい、逆に、外側へ向っていこうとすると、いつの間にか内側へと入り込んでいる、という構造があると思うのだけど、最後になって、やや内向きになり過ぎているように思った。
間交差点からつながる保存された古い空間が、イサコ一人の心を癒すためにつくられた場所だったり、その空間が維持されている理由が、猫目の父への思い(メガマスへの復讐)だったりするのは、いままですっと観て来た末に、そこに着地しちゃうのか、と、ディック的な時空の歪みがいきなりエヴァンゲリオンになってしまったみたいな落胆を感じた。(実際、イサコとミチコさんが一緒にいる場面など、ほとんどエヴァになってしまっている。)それに、ヤサコとイサコが一心同体みたいになるところとか、ああ、こうなっちゃうのか、とも思った。もうちょっと、開いたまま終わるという感じにはできなかったのかなあ、と。(と、文句は言うものの、観ながらけっこう泣いてました。あと、ヤサコを包み込んで空を飛ぶサッチーに、おお、と思った。)
とはいえ、最後には、やはりイサコはイサコなのだというところをちゃんと見せて終わるバランス感覚は、さすがに大したものだと思った。
●全体としては、画期的とも言える、すごく面白いアニメだった。
●個人的にいちばんリアルだったのは、古い空間にいるヤサコが自分の記憶を見るという場面で、子供の頃のヤサコの道案内をするヌルが、ヤサコのおじいさんの姿になって、ヤサコが、あ、おじいちゃん、でも、おじいちゃん死んだんだよ、と言うと、そうじゃ、わしは死んだんじゃった、忘れとった、と答える場面。
ぼくは、祖父が亡くなって長い間(十年以上は)何度も繰り返し見つづけた夢があって、それは、(既に取り壊されてない)実家で夜中に目覚めてトイレに行くと(実家には、普通の和式のとは別の個室に、男性用の小便器があった)、そこに死んだ祖父の死体が立っていて(幽霊ではなく、実際の死体)、タバコを吸っているのだった(晩年の祖父は医者からタバコを禁じられていて、トイレで隠れて吸っていたのだが、じつは家族は皆吸っているのを知っていて黙認していたのだった)。ぼくは、ああ、おじいちゃんはまだ死んだことに気づいてなくて、また出て来ちゃったんだ、と思い、おばあちゃんが見たら驚くから、もう出てこないように、おじいちゃんは死んだのだからもう出て来るな、とちゃんと言わなければいけないと思うのだが、どうしてもそれを言い出せなくて、にたっと笑って(タバコを吸っているという事実を)おばあちゃんには内緒だぞ、と言う祖父に、ああ、分かってるよ、としか言えないのだった。