08/04/30

●『電脳コイル』21話から23話をDVDで。ここまで来ても全然テンションが落ちないで維持させてるのはすごい。人を「向こう側」へ誘う力としてのハラケン-カンナというラインが一応決着をみたと思ったら、それよりもさらに深くて強い力としてのイサコ-兄のラインで畳み掛けててくるという展開には感心させられた。同じものを反復させつつ、それをより強く、より複雑なものとすることで、作品そのものの謎の奥深くまで連れてゆかれることになるし、作品としての構造も、強く複雑なものとなってゆく。あと、最初に設定された作品内ルール(例えば、オートマトンは神社や個人の家には入れない、とか)が、作品の進行のなかで破られてゆくことによって、だんだん抜き差しならない感じになってゆくという展開も上手いと思った。
「こうなった原因はすべて私にある」とイサコが言う時、最近読んだばかりのディックの『流れよ我が涙、と警官は言った』で、アリスの頭のなかによって世界全体が歪んでゆくという話を思い出した。ここでは、一人の内面的な小学生の抱く「思い」が世界を歪ませるというより、もともとあった世界の歪みと、小学生の思いとが共振することで、歪みが増幅されてしまい、それによって「思い」が「現実」にまで食い込んでくる、ということなのだろう。今までいっさいみせていなかった、イサコの家庭の事情を、ここで一瞬だけちらっと見せる、というのもすごいリアルだ。あの朝の食卓での短い会話がなかったら、その後のイサコに関する展開の説得力が全然ちがってくる。ハラケン-カンナをめぐる話の時にはすっかり前景から退いていたタイチが、また再び活躍するのもいい。場違いに「ヘイクーを俺に返せ」とか言うタイチはやっぱ良い奴だと思った。
古い空間と新しい空間との対立が、コイルズとメガマスという2つの企業の対立として説明されたり、大黒市の行政が半官半民で行われているだとか、小学校の教室が高層ビルの最上階にあったりとか(学校裏サイトみたいなのも出てくるし)、そういういかにも現代風な細部が、これみよがしではなく、作品の背景となって、作品そのものの説得力を支えているところもいい感じだ。
電脳コイル』は、一見、古典的な物語や絵柄、古典的な動きで、古典的な子供向けアニメへの回帰のようにもみえるけど、しかし、古典的なアニメでは、ここまで深くて広がりのある世界設定はあり得ないし、ここまでデリケートな人間関係の描写もありえない。例えば、ヤサコとフミエとの距離の微妙さとか、普通子供向けアニメではあり得ないだろうと思う。「サリーちゃん」でいうヨシコちゃんキャラであるフミエというキャラクターに、こんなに複雑な陰影(時々ふっと、すごく嫌な奴の側面をみせる)をもたせるか普通、とか思う。(この作品はあきらかにキャラ指向とは逆の方向に向っている。)これはやはり大変な作品なのだと思う。