●『電脳コイル』18話~20話をDVDで。このアニメを子供の時に見ていたら、それこそ向こう側に持っていかれて戻ってこれなくなってしまったかもしれない。さすがに今では、すれっからしなので、ある程度距離を置いていろいろ分析的に観てしまったりするのだけど、それでも「向こう側」に対する恐怖と希求は、人間の感情のもっとも古い層に依然としてあって、物語は、いろいろと現代的な意匠をほどこして、そこを刺激してくる。
『電脳コイル』は、「向こう側」を開くための、人の「向こう側」への欲望をリアルに刺激するための、こちら側の様々な設定や段取りなどにおいて非常にすぐれた作品ではあるけど、しかし、「向こう側」そのものの表象になると、やはりちょっとトーンダウンするように思う。そもそも「向こう側」というのは、「こちら側ではない」という風な否定や、古い空間と新しい空間のズレとかいうようなズレとしてしかあらわすことの出来ないもので、それそのものを形象化しようとすると、まあだいたい似たり寄ったりにしかならないのは仕方がないのだけど。
ただ、『電脳コイル』がすぐれているのは、向こう側そのもののあり様ではなく、子供達が「向こう側」へと惹かれてゆくという、その吸引力こそがいつも問題となっているところだと思う。向こう側へと人を導く「物語」を、知性によって吟味したり批判したりすることは容易いけど、人が常に「向こう側」へと引かれてしまう感情をもつ必然性があることは、そのような吟味によっては消失しない。『電脳コイル』では、非常に巧みな設定と段取りで、人を「向こう側」へと誘いつつも、例えば、向こう側へ入っていってしまいそうになるハラケンを押しとどめるのが、ヤサコによるまた別の強い感情であったりすることろがいいと思う。(感情はおそらく、別の感情との相殺によってしか解決しない。)それは、ヤサコ自身もまた、向こう側へと強く吸引される資質をもっていることによって、さらに説得力を増す。これも、物語としてはありふれてはいるのだが、物語はたんに、物語の定型としてだけあったのでは作動せず、絶えずその時々に、巧みに語り直され、上演し直されなければ作動しない。おそらく、物語として繰り返し上演され、何度も「向こう側」への欲望を刺激されつつ、しかしその都度押しとどめられるという繰り返しによってしか、本当に「向こう側」へ行ってしまうことを抑制することは出来ないのではないかと思う。(とはいえ、本当に「向こう側」への親和性の強い子供だったら、それでも向こう側に持っていかれて戻ってこれなくなってしまうかもしれないのだが。)
●とりあえず、20話までで、ヤサコ-ハラケン(カンナ)というラインの問題は一応の解決をみて、今後、イサコとその兄、そしておそらく問題の核心であろう、病院とヤサコの祖父の問題へと切り込んでゆくのだろう。まあ、こういう話の解決はたいてい、過程よりも面白くなくなるのは仕方がない。それでも「向こう側から戻ってこれない」ということにならないように、きちんと解決はしておく必要はあるのだ。