08/03/30

●作品について何か書く時、後ろめたさと恥ずかしさが伴う。書いていることが、その作品の一部にでも擦っていれば上出来で、しばしば空振りだったり、あるいはたんに自分の関心を書いているだけだったりする。「なんとか論」とかを必死で書いて、それなりに書けたと思っても、一応完成した後にその対象である「なんとか」を読み返したりすると、自分の書いたことがこの作品にどの程度まで深く関われているのか怪しく思え、自分の強引な手つきが見えてきて、こういうことを書くことって、作品にとってどういう意味があるのだろうか、などと考えてしまう。自分が「上手いこと言う」ことが目的なんじゃないの、と。
後ろめたさと恥ずかしさとを感じながら、それでも書くのは、書いておかないと忘れてしまうからであり、書かなければここまでは考えなかった、というところまで考えられることがあるからなのだが(しかしやはり、「上手いことを言う」快楽というのもあることは否定できないのだが)、言葉にするということは決算みたいなもので、もやもやとした不確定な広がりとしてある感触を、言葉にする時点である程度価値を固定させてしまうということでもあり、だから、今はあえてそれは言葉にしない方が良い、もやもやしたままで持っていた方がいい、という判断が必要なことがあって、これは忘れてはいけないことで、何でもかんでも明快に言えばいいというものでもない。(この株をいつ現金化するのがよいか、というタイミングがあるのと同様、このもやもやをいつ言葉にすればよいか、というタイミングもある。)
その作品に触れなければ感じられなかったことがあり、その感じから導かれたものから出発して、それを実際に言葉で書いてみなければ、ここまでは考えられなかったという「考え」がある時、その「考え」は絶対どこかで作品そのものと繋がっているはずなのだが、しかし、その「考え」は必ずしも作品そのものを「説明するもの」というわけではない。作品→考え、という連続性はあっても、考え→作品という連続性があるとは限らない。