2021-03-25

●去年は、数として、生涯で最も多くの小説を読んだ一年だった(「新人小説月評」のほかにも、多量の小説を読む必要があり、それが重なったため)。それは逆に、「それ(必要)以外の小説」がほとんど読めなかった、ということでもある。なので、ちょっとした浦島太郎状態になっているという感じがある。今年に入って、ようやく「読みたい小説」が読める、と思ったのだが、去年の後遺症のようなものが残っていて、なかなか小説を読みたいという気持ちになれなかった。ここにきて、ようやくその呪いが解け始めているようだ。

『坂下あたると、しじょうの宇宙』(町屋良平)を読んだ。『1R1分34秒』を読んだのは今から一年半ちかく前だ。これはたいへんな小説だと感じたが、そのことで、それ相応の覚悟がなければ安易に近寄れない難物という印象になって、余裕のなかった去年は、町屋良平の小説をあえて遠ざけるような感じになってしまった。『坂下あたる…』は、発表媒体からみても軽めの作品であることが予想されたので読んでみることにした。

前半を読んでいて、あー、これは魅了されちゃうやつだ、と思った。もし、十代の頃に読んでいたら、この小説にすっかりハマってしまっただろうというような種類の、ある種の傾向の人たちを魅了せずにはいられないような青春小説だ、と(たとえばぼくが十代の頃は橋本治がそうだったような)。ここには、『1R1分34秒』に原液のような形であった、とても濃厚な二者関係のあり様が、ある程度整理されたマイルドな形となって示されていると思った。

そう思って読んでいると、中盤過ぎくらいにびっくりするような「大ネタ」が導入されて、えっ、これってそういう話だったの、と驚くと共に、この段階でこんな大ネタを出してきて、この大ネタを出した必然性があったと納得できる形で、大ネタの落とし前をきちんとつけられるものだろうかと思い、この話がどこに向かっていくのかという際どさにドキドキした。

とはいえ、これはあくまで青春小説であってハードSFではなく、大ネタと思ったものは実は大ネタとしてあるのではなく、この小説にはじめから一貫してある「とても濃厚な---そして複雑に相互貫入的である---二者関係」のあり様を表現するためにひとつの「装置」として導入されたのだと納得できた。

(自分もどきのAIが書いた小説に、自分は決して届くことができないだろうという自覚によって主人公の友人は「言葉を失う」のだが、これは、真剣に作品をつくっている人なら誰でも突き当たるであろう、自分の能力の絶対的な届かなさの自覚による絶望を分かりやすい形で示したものだと言えよう。また、実際にAIがそのデータ元となった作家以上の「新作」を生み出すことができたとしたら、この小説に書かれているくらいのことで、AIが混乱することはないのではないかとも思う。)

この小説の本当の大ネタは、大ネタとしてのAIではなく「詩」であるだろう。主人公は詩を書く人であり、何人もの詩人の詩が実際に引用され、主人公の書いた詩が友人の危機を救うという物語をもつこの小説では、主人公の書いた(とされるが、実際には「作者」が書く)詩が、本当に友人に響き得ると納得できる質をもっているのかという点がとても重要であろう。ここで実際に「詩作の実践」が行われ、小説とは異なる「詩の説得力」によって、小説の説得力が支えられている。

(『1R1分34秒』で行われているのは、ある意味で「小説のなかで行われる言葉によるボクシングの実践」であるように思われるが、ここで行われているのは、「小説のなかで行われる言葉による詩作の実践=要するにベタに詩作そのもの」なのではないか。)

友人は小説を書く人だが、友人の書いた小説はその一部ですら示されない(「この小説」そのものがそれを表しているとも考えられるが)、しかし、主人公の書く詩は、ちゃんと示される。才能に恵まれ、本気で文学に取り組んでいる、小説を書く友人と、その友人の傍らにいることで(そのことの効果によって)、友人からこぼれ落ちた(言葉にならなかった)言葉を拾って詩を書く主人公。主人公の詩の言葉もまた、友人に由来するとしたら、その大本である友人が言葉を失った時に、今度は主人公の書いた詩が友人に言葉を取り戻させる。小説と詩とが相互貫入していて、循環的な構造とも言えるが、単純な循環ではないあり様にリアリティを感じた。

(以下の引用は、ある意味でこの小説の「ネタバレ」ですらあると思われるので、未読の人は注意されたい。ラストの場面で語り手が移動していて、下の引用部分では主人公ではなく、友人の語りになっている。)

《『現代詩編 四月号』に掲載された毅の詩、『言語領域ノスタルジー』をよんで、オレは自分のことばみたいだとおもった。まるで、オレがかいたみたいだと。だけど、何回もよんでいくうちに、くり返しおぼえてしまうぐらいよんでいくうちに、自分のことばとの齟齬がすこしずつあらわれた。ここにかいてあるのは、オレがかいたみたいだけど、確実にオレがかいたのじゃないことばたちだ。事実や経験を越えて、オレの肉体がそう確信した。

α(AI・引用者註)のかいた『ほしにつもるこえ』をよんでいるときの感覚と似ていた。なのに、かいた相手が友だちだっただけで、本来文学とは関係ないようなそんな事実だけで、とても安心してしまった。ほんのわずかのことばのズレが、圧倒的に心地よかった。きづけば涙がこぼれていて、オレは毅の詩を何度も何度も音読することで、じょじょに自分のこえをとり戻していった。》

(上に書いた「AIは二者関係を表現するための装置にすぎない」という言葉と矛盾することを書く。AIは自分から言葉を奪い、友人(主人公)は自分に言葉を再びもたらす、という構図になっているのだが、とはいえ、友人にとって、自分を---書き換え、乗り越えるという形であるとしても---反復しているという意味で、AIも主人公もほぼ同位置にあることになる。考えてみるとこれは奇妙な感覚で、この小説では、友人と主人公の濃厚な二者関係ど同等なものとして、友人とAIとの二者関係が置かれていることになる。)