2025-09-11

⚫︎昨日の日記に書いた『ミッシング・チャイルド・ビデオテープ』は、演出も優れているが脚本も優れていると思い、脚本を書いた金子鈴幸という人について調べたら(「調べた」といっても検索しただけだが)、他にも何本か映画の脚本を書いているが、基本的には「コンプソンズ」という劇団で、作・演出、そして俳優をやっている人らしいとわかった。そして、そのコンプソンズの公演のいくつかはU-NEXTで観られることも知った。

で、『岸辺のベストアルバム』という公演の映像を観てみたが、ぼくにはダメなタイプの演劇だった。いや、途中まではかなり面白く観ていたのだが、終盤というか、クライマックスの20分、30分くらいが、「あー、これ、自分にはダメなやつだ」となって、すーっと引いてしまった。小劇場演劇のクライマックスの「この感じ」が昔から苦手で、魂が離れてしまう。

基本、それまでずっとふざけ倒してきたのに、ある段階でふと「しんみり」「しっとり」した調子をみせて、そして終盤は、クライマックスシリアス熱演盛り上げモードに入る。12、3歳でテレビ中継で初めて夢の遊眠社を観た時から、終盤にいきなりこのノリになるのがダメで、自分は今でも変わらずこれがダメなんだなと知った。

(最後に「ゼロ年代批評」の問題の再提示のような流れになるのだが、そこに新たな切り口があるわけでも、議論の深まりがあるわけでもなく、俺たちはゼロ年代批評を忘れない、みたいにしか見えなかった。)

とはいえ、途中まではかなり面白かったのだ。とにかく時事ネタがてんこ盛りで、地上波では観られない(毒あり・マニアックありの)高密度でハイコンテクストな社会派時事ネタコント集みたいな感じで、それがいかにも現代演劇的な、切れて立っている技巧による鮮やかな場面転換で数珠繋ぎにされる。その密度は、「現代紋切り型民俗博物館」といってもいいような様相を呈するくらいだ。それは普通に高度で普通に皮肉が効いていて面白い。複数の人物が「物語の語り手」の座(主体)を奪い合うというメタ構造は、特に新鮮ということもなくやや「懐かしさ」さえ感じるものだが、それも全体としての「あえて」のノスタルジーモードと合っている。おそらく、あえて「やや古い感性」を出してきていると思われるが、それがキレキレの技法とみっしり詰め込まれた密度によって「別物」として現れる(現れ直す)感じは、『ミッシング・チャイルド・ビデオテープ』とも近いのかもしれない。

『岸辺のベストアルバム』というタイトルは、一方で70年代にヒットした(家族の崩壊と再生を描く)山田太一脚本のドラマのタイトルから来ているのだろうが、もう一方で『海辺のカフカ』をもじった「岸辺カフカ」という、あまりといえばあまりにも「いかにも」な登場人物から来てもいる。こんな人物を出しながらも村上春樹を軽くバカにしつつ展開するこの作品は、しかし終盤には、14歳で殺人を犯し、20歳でシャバに出て来て、30歳になった今、歌舞伎町でホストをしているという、この「いかにも」な人物の抱える「悪」を、無名で無関係な「わたしたち」は(そして、イマジナリーフレンドとしての「フィクション」は)どう食い止めることができるのかというような、シリアスかつ「いかにも」な主題へと収束していく。このような問題化に意味がないとは思わない(むしろ「意味」はすごくある)。しかし、この作品では、このシリアスな主題に対して何かしらの新しい視点なり問題の再構成なりを示せているようには思えなかった。

魔法少女という新たなフィギュールが加わったが、基本、青山真治ユリイカ』からそんなに変わっていないのではないか、と。)

(岸辺カフカさえも、とるに足りない紋切り型のモブキャラに落とし、その上で再肯定するという「新しい視点」の気配=可能性はこの作品にはあったと思う。「少年犯罪などもはや流行らない」というセリフもあった。しかしそれは徹底されず、けっきょくは彼が特権的な人物になってしまったように思う。「悪」の特権性を解体(脱構築 ! )するのはとても難しい。)

たとえ不格好になってもシリアスにならざるを得ない厳しい現実がある、ということはぼくも感じてはいるつもりだ。しかしこの作品の終盤はあくまで「シリアスモード(「物語」の、あるいは「演劇」のシリアスなモード)」であってリアルな「シリアス」ではないのではないかと感じてしまった。むしろ、最後まで責任を持って、クールに、アイロニカルに、時事ネタを弄ってふざけ倒す方がシリアス=真面目な態度ではないか(そのような態度こそが、紋切り型を相対化し、おちょくりつつ、それでも「紋切り型でしかありえない生」を肯定することになるのではないか)とぼくなどは思う。が、その感覚ももう古いかもしれない。

アイロニーは皮肉でしかなく、知的ではあっても、積極的に何かを変えることはないし、何も創造しない、というのは本当だろうか。ユーモアとしてのアイロニーが成立することで、ギリギリ保たれる尊厳のような何かがあり、それを保つことこそが抵抗なのではないかとぼくは思う。それをもっと信じてほしかったというのが、この作品に対するぼくの感想だ。