2024/03/31

⚫︎エリー・デューリング『Faux raccords: La coexistence des images』のイントロダクションを読む。ハーマンの英語と違って、デューリングのフランス語は晦渋なので、ChatDPT、Gemini、Claude 3と、三つのAIにそれぞれ翻訳してもらって、訳文を比較しつつ、よくわからないところはAIに質問する(「訳文で「⚪︎⚪︎」となっているのは、原文ではどこを指し、それはどのような文脈で使われていますか?」とか)、という形で読み進める。三つのAIにはそれぞれ一長一短があるし(明らかにキャラの違いがある)、それぞれコンディションが良い時と悪い時がある(おそらく、大勢の人が同時に使っている時はパフォーマンスが落ちる)。

まずここでデューリングは、この本が主に扱っているのは「共存」の問題であり、共存を捉えるには「時間」と「空間」という二つの側面から見る必要があるとする。《時間による共存は、誤認における現在の二重化によって示される二重性の問題です。空間による共存は、同時性または遠隔接続の問題です》(Claude 3)。

二重性(時間)と同時性(空間)。《一方で、過ぎ去らない現在、自己に逆流し、分裂し、一種の幻影を投影する、瞬間の記憶、「純粋に仮想的な現在の記憶」、そして同時に、現在に付随する、同時代の過去》(ChatDPT)。《他方で、物質的な広がり全体に分布する異質な持続の多様性。変化と生成自体と同じくらい数多く、包み込まれ、からみ合った持続性。そしてそれらがどのように交流するのかという問題》(Claude 3)。《れらの異なるリズムの無数の時に対して、どうやってそれらがすべて連携しているのか、という問題がある》(ChatDPT)。《なぜならばそれらは共存しなければならず、全体が概念に答えなければならないからである。たとえそれがあらかじめ総体化できない開かれた、生成中の全体であったとしても》(Claude 3)。

この部分に、イントロダクション全体の問題が詰まっている。一方に、それぞれに異質でバラバラな個別の流れ、リズムがあり、そしてもう一方に、それらをどのように重ね合わせたり、交流させたりして共存させるのかという「全体」という問題がある。このことは、一方でローカルなデータがあり、他方で、それらを関係づける地図やダイアグラムのようなグローバルな表象が必要であるとも言い換えられる。

とはいえ当然だが、「異質なものたち」を束ねる「グローバルな表象」が簡単に得られることはない。《時間の流れは、アインシュタインの時計のように不協和になる可能性があります。しかし、それらが一緒に流れることは必要不可欠です。そうでなければ、どのように何かを語ることができるでしょうか?》(Gemini)。《物語は一般に「昔々あるところに」で始まるが、他の声、場所、行動の筋道が導入されるとすぐに、「そのころ同時に」と続けなければならない。(…)映画はクロスカットを最も効果的な物語の要素の1つとした。そこでは、空間的な隔たりがあるにもかかわらず、時間の系列が時折交差するのが見られる》(Claude 3)。そのような意味で、(常識とは異なるが)映画は同時性(空間)の芸術と言えるかもしれない、と。さらに、アラン・パディウが、映画の思考の本質は運動よりもトポロジーであるとする主張を引用する。《ショットやシーケンスは、結局のところ時間の尺度においてではなく、近接性、呼応、持続、あるいは断絶という原理において構成される》(パディウ『美学小辞典』からの引用、Claude 3)。映画で重要なのは、一秒間に24コマという虚偽の運動ではなくモンタージュなのだ、と。デューリングはさらにこれに加えて次のように書く。《モンタージュ自体は、ある画面とつぎの画面、ある場所とつぎの場所を一連の編集による切断を介して接続することで、画像から何かを引き去るだけのことなのである。実際、真の幻惑の仲介者となっているのは、局所的な運動と我々がそれに自然に結びつける時間の流れという概念なのである》(Claude 3)。ここで「局所的な運動」が結び付けられるという「自然な時間の流れ」は、《画像の流れを方向付ける全体的な運動、「全体的時間」》と名付けられる。

ここで先ほど書いた「ローカル/グローバル」という話になる。《映画は本質的にトポロジカルであり、二次的に時間的であると断言することは、あまりの習慣に暴力を振るうことになるでしょう。しかし、映画的および芸術的な観点から画像の共存の問題を検討することを目的とする場合、この主張を真剣に受け止めないのは難しいです。実際、共存の問題は、時間と空間のローカルなデータと、例えば地図や図表のような、複数の視点の共存を同一の表現空間で再現しようとする表現の間の接続の問題として基本的に提示されます。また、接続、ローカル/グローバルは、典型的にはトポロジカルなカテゴリーです。

次いで、やや秘教的な発見だがと断りつつ、「接続」の問題を考えるということは「切断」について考えること、切断についてより適切に考えることだ、と言う。《映画や芸術における共存の形式を実験することは、新しい切断の方法を探し求めること、言い換えれば、接続の概念を相対的な切断の可能性に結びつけることを意味する。(…)何も完全には分離されていない。ただし、分離の度合いがあり、これが共存の関係を複雑にする。要するに、同時性を相対的に利用する必要がある》(ChatDPT)。例えば双子のパラドクスで、地球にいるAと宇宙船で旅行するBとが、どの程度切断されているのかを考えることが、双方の(相対的な)同時性のあり方を考えることになる、というようなことではないか。《バザンに始まり、スプリット・イメージ、スプリット・スクリーン、デタッチメント、エリプス、そしてオフ・スクリーン、ブラインド・スポット、ブラインド・スポットのあらゆる種類を含むあらゆる種類の偽の接続まで、禁断の編集術における断絶の例には事欠かない。これらの概念は、不可逆的に空間的であり時間的である》(Claude 3)。

とはいえ、ただ「切断」されているイメージを提示するだけの作品、あるいは、異質なものの隣接性を提示して、現在/過去、現実/仮想の分類・分割を無効化するだけ作品には大して意味がない、と。《私たちは同時に複数の時間空間に存在していることは、毎瞬、過去の隅々に埋もれた記憶を動員していることからでも明らかです。現在に厚みがないという事実に驚くのも同様です。(…)この普遍的な経験の心理的な相当物を、美術館の壁に投影すること自体には、特に興奮するようなことはありません》(Gemini)。《芸術や理論において、重要なのは特筆すべき点と普通の点を区別することです》(ChatDPT)。

ヒッチコックの『めまい』が、そのようなものではない「特筆すべき作品」として挙げられるが、『めまい』のための一章が本文にあるので詳しくは触れられない。イントロダクションでは、ヴァリー・エクスポートによる「Adjungierte Dislokationen」(1973年)というビデオ・パフォーマンスと、ダン・グレアムの「Two Correlated Rotations」(1970-72年)という作品が、特筆すべきものとして取り上げられる。

「Adjungierte Dislokationen」は、ギャラリーの壁に投影される三つの映像からなる。16ミリで撮影された一つの大きな映像と、8ミリで撮影された二つの(縦に並べて投射される)小さな映像だ。大きな映像には作家がパフォーマンスする姿が映される。作家は、肩の高さで、正面に向けたカメラと背面に向けたカメラを同時に構えている。この、180度で真逆を向いた二台のカメラによって捉えられた像が、二つの小さな映像であることが確認できる。作家は、カメラを構えたまま街を歩き、どこかの斜面を登ったり、高い台から飛び降りたりする。しかし観続けていると、この三つの映像は必ずしも同期していないことが分かってくる。非同期の度合いは時間の進行と共に強調されるようだが、しかし時折、再び、三たび、同期したように思われる瞬間はもある。

Valie Export, Clips from Adjungierte Dislokationen 1973 - YouTube

Dis-lokationは、全体的な経路、バディウの言葉を借りれば「一般的な時間に関連付けられた経路の形」といったものの再構築が、常に阻害されていることを意味します。その結果、空間の形状自体や、最終的には連続した動きの意味が、ますます抽象的な連続的なプランのラプソディックな連続に置き換わり、それでも断続的な同期や、遠く離れた再接続のポイントが散発的に存在します(ChatDPT)。

つまり、ローカルなデータと、グローバルな表象の関係が安定的に得られることがない。だが、完全なな無秩序ではなく《断続的な同期や、遠く離れた再接続のポイント》は存在する。

観客は疲れ果て、この作品が提供する2つの可能性のいずれかを受け入れることになります。1つは、メイン画像に集中してパフォーマンスのドキュメントとして見ること。もう一つは、抽象的なイメージの流れに身を任せ、分裂を受け入れて、このモンタージュを「実験映画」のような美的な楽しみの機会として捉えること(Gemini)。しかし、最も興味深い立場は、もちろん完全に持続不可能な立場であり、装置が禁止している立場ですが、私たちを常に誘っているモンタージュの場所です。画像の中心に立っている私たちは、これらの三つの同様に不快な立場の間を移動するしかありません。私たちは少なくとも映画体験の時間としての「グローバルタイム」の相当物を得ることができるでしょうか?(ChatDPT)。

ここで言われているのはつまり、決して一致することのないローカルなデータとグローバルな表象との間で「虚の透明性(≒映画体験の時間としての「グローバルタイム」)」が成り立つかどうかだ、と言い換えることもできるのではないか。

次に、ダン・グレアムの「Two Correlated Rotations」。二人の男が互いに相手を撮影しあいながら、渦を巻くような動線に従って移動を続けている。そうして撮影された、二つの映像が投射されているという作品だ。

2つの視点はグラハムによると「ほぼ同期しているが、"機械的な不規則性"がある”2台のプロジェクターを使って、角度をつけた二重投影によって再現されます。ブレやフレーミングのずれにより、周囲の空間の断片が数秒見えたりします。また、撮影者が複雑な軌跡に沿って「盲目で」移動しながら、できるだけ視線を維持することの難しさも示されています。一方で被写体は、同じくらい複雑な軌跡を逆方向に移動しています。避けられないこれらのつまずきとずれがあるにもかかわらず、相互性の原理は完全で、インスタレーションは自己に完全に閉じられているため、観客を外に押し出すようです》(Claude 3)。エクスポートの作品とは対照的に、互いに互いを映し合う自己完結した二つの映像の間で、観客は自らの位置を得ることの困難に直面する。《確かに、2つの相互的な映像の真ん中に、自分の視点という第3の視点を据えようと試みることはできます。しかし、すぐに根本的な困難に行き当たります。それは、パフォーマンスが行われている空間が、観客には自明ではなく、全体像を再構成することができないということです。結局のところ、欠けているのは、この2つの視線が互いに注視し合い、相互に焦点を合わせているような「視点」の構成または共存の空間なのです》(Claude 3)。ここでもまた、ローカルなデータが配置される(共存される)べき、グローバルな「全体」が前提とされない。開かれたままで、絶えずずれ続ける不規則なネットワークを構成するローカルなデータの束を、決して完成・完結することのない「全体」へと結びつけるのは、フィードバックループを作る二つの視点の真ん中に第三の場所を作ろうとする観客ということになるのだろう。《本論にとって本質的なのは、ダン・グラハムがこのようにして、視点の局所的接続の体制の典型を生み出したということです。つまり、構成の場所のない接続で、調整は必然的に段階を追って、連続的な対応によって行われますが、おそらくは効果的であるためには、第三の項が介在し、2人のパフォーマー間の経験した関係を、関係の経験へと変換する必要があるのかもしれません。同時にこの経験は、第一の関係の延長線上に、第二の関係を構築するのです》(Claude 3)。

どちらの作品も、単に断絶や切断、不連続を示すのではなく、その切断が全体(共存)を要請し、誘うような形で示されている。しかし、通常の、または常識的な「時空」概念では、その全体(共存)は決して完結しない。そこで「共存」を思考するためには、常識的な時空概念(時空感覚)を超えた、新たな時空(新たなトポロジー)のあり方が要請される。