2019-09-12

●「時間的形態としての都市」(エリー・デューリング)は、「東京とは何か」という問いから始まっている。ここにはいくつもの非常に魅力的な分析がある。「同時性」を、各瞬間における物の空間的な配置として考えるのではなく、異なる流れ(リズム)が時間のなかで共にあるという形で考える(膜としての時間)べきだという時間論的な主張も、東京という都市の具体的な考察を通じて、そこから導かれるようになっている。

たとえば、東京の「明確な形をもたない」という性質(マスタープランの欠如、中心/周縁の不在、「全体」を見渡すことの不可能性)について、それをたんに混沌として捉えるべきではないとされる。

(…)芦原は、日本の都市建築は近くから考察されるために作られており、いくつかのヨーロッパの都市のように壮大な遠近法や全体の構成に合わせて遠くから考察されるべきものではないことを強調しています。要するに、都会の空間が視覚的に見て無秩序に感じられるのは、位置の取り方や視線の向け方が悪いせいだ、ということです。外的膜や全体的図式の形式的統一性を捉えようとしても、見えなくなったり、影に隠れたりする空間に突き当たります。完成した構図を探しても、見つかるのは部分的な完成ばかり。それゆえ東京の「隠された秩序」を捉えるには、形態についての私たちの概念それ自体を変化させる必要があるのです。》

(…)東京の形態は全体(le tout)、あるいは諸全体(les touts)の中に求めるべきではありません。それは諸部分の中に、すなわち諸部分を分節化するある特定の様式の中に求めるべきなのです。(…)それは生成のうちにある形態であり、常にその一部分が潜在的かつ未完成なのです。》

《しかし私はここで、急いでひとつの保留を表明しておきたいと思います。(…)形態と全体性の概念を非固定化したからといって、全体化の問題が片付いて完全にローカル性に専念できるわけではない、ということです。全体的なものは消えはしません。不完全な形態という観念、そしてこの観念が一見含意しているローカル性の促進が示しているのは、全体的なものに復帰するための他の道を見つけなければならないということにすぎません。》

●このような問題意識が、東京という都市空間の問題と哲学的な問題(複数の異なる流れを束ねるものとしての「同時性」の問題)とを関係づける。ここでエリー・デューリングは二つの問題を結び付けるためにパラドックスという方法をもってくる。

《そこで私は東京という形態の特徴について誰もが知っている考察を積み重ねるのではなく、まずはこの問いにひとつ目の理論的定式化を与えておこうと思います。私はそれをパラドックスという形で定式化し、その支えとして具体的な例、それも大げさなくらい具体的な例の数々を使います。》

《第一のパラドックス:東京は本質的に小さい。(…)私はついさっき、東京は計り知れないほど巨大だといいました。(…)しかし私たちは感じています、東京は小さい、と。(…)東京はパリよりもはるかに広大で、当然京都よりも大きい。しかし東京は言うなれば質的に小さいのです。》

(…)まず、東京の巨大さそれ自体が、そこにひどく異質なスケールが共存しているという事実と相まって、ただ対照の法則によって小さく見せる効果を高めていることはあきらかです。新宿で窓ガラスから光を放つ高層ビルのすぐ近くに、「ゴールデン街」のいかがわしい小地区にある居酒屋が人でごった返している。マッチ箱の形をした木製の小屋は比較すると実際よりもさらに小さく、ちっぽけで、細く見えます(…)。これはミニチュアです。小さな庭や、高架下の小さなレストラン、その他にも無数の東京の側面にも同じことが言えるでしょう。しかし純粋に相対的なこの側面以上に私が面白いと思うのは、私が引用した部分でバルトが捉えていた、言うなれば絶対的な小ささです。Small Tokyoという冊子の中で、ジュリアン・ウォーラルはダーコ・ラドウィックのチームと協力していますが、彼は東京が「高解像度」の都市だという言葉で、これをうまく説明しています。これは新世代テレビのスクリーンについて言う時と同じ意味です。東京にいると、頻繁に最低単位であるドットのスケールまで落ちるのだという考えです。(…)これは量的な小ささや、相対的あるいは絶対的な大きさに由来するものではなく、(…)次第に減少する都市の織り目の部分の中で、ドット単位に至るまでのあらゆる解像度でスケールの多様性を再発見する可能性に由来するものなのです。》

《「ゴールデン街」の小さな居酒屋が、高層ビルの足下にひしめいている。しかしそれぞれの居酒屋に入ってみると、さらに驚くべきものに出会います。ごく小さな酒の容器の隣に巨大な酒瓶が置かれているかと思えば、ポケットサイズの水族館や日本庭園が二つの石の間に配置されており、近くにある御苑や、地区にある「ポケットパーク」を思い起こさせる、等々。》

《すでに見えてきているのは、フラクタル構造のようなもの、あるいはモナド的な、ライプニッツにおける魚の住む池のようなものです。それぞれの魚は体液を有しており、その一滴一滴がまた池である、というように無限に続くのです。》

《東京は真のライプニッツ主義者のように無限の解像度を持つわけではありません(…)が、その解像度はこの観点からすると遙かに同質的で目の粗いロサンゼルスよりもずっと高いのです。そしてこの考えは、東京の形は近くから見ないと明らかにならないという芦原の発想に一致します。形は全体ではなく、部分の中にあるのです。形は不完全であると同時に近似的であり、近接的、すなわち近接性や親密性の価値と結びつくものでもあります。》

●このようにして、いくつかのパラドックスを示すことによって、哲学的な(一昨日の日記で引用した)「同時性」の概念へと徐々に迫っていく。そして、「同時性」の概念を一通り説明した後に、このような(同時性にまつわる)探求が向かうべき先を指し示すものとして、昨日の日記で引用した「日本庭園」についての部分が述べられる。さらに、この論考で述べられた様々なことが、S-Houseについての考察へとぐぐっと集約されて終わる。エリー・デューリングがどれだけS-Houseを高く評価しているかがうかがえる。

S-Houseは同時の形態に関する実験という観点から、とりわけ私の興味を引きます。なぜならS-Houseは体系的な仕方で、二つの原理、透明性の原理と分離の原理を作動させているからです。透明性の原理は視界を最大限に解放し、それぞれの部屋から他のほぼ全ての部屋に視線が届くようにします。しかしそれと同時に、分離の原理は視覚的空間と、家への訪問者の現実的あるいは潜在的移動と結びついいた運動感覚の間を断ち切っています。というのも通路が一見してそう思えるよりも長く、複雑になっているからです。目は手や足より速いのです。直接見ることのできるある地点に到達するためには、まっすく数歩進めば済むと思いきや、実は入り組んだ道のりであることがわかります。階段を通って回り道をし、障害物をさけるなどをする必要があるのです。この分離やずれは、この家に住む哲学者清水の言葉によると、二カ所性の感覚(ソファに座ったまま、水を飲むために台所へ向かう)や、幽体離脱に近い感覚(体はベッドに寝たままで、心は夜中に通りをさまよっている)を誘発します。私もこの家を訪問して、この構造が持つ、方向を見失わせる力を感じることができました。透明性の原理と組み合わせることで、分離の原理は柄沢の言う構造の不透明化に到達しています。ここで奥の逆説的経験、すなわち谷崎や槇、あるいはオーギュスタン・ベルクが賛美した、陰と深い親密さの経験について話すこともできるでしょうが、この経験はここにおいて、完全に透明性の要素の中で展開しているのです。空間は透明性と不透明性を結びあわせます。空間はそうして、へーゲル(あるいはエルンスト・ブロッホ)だったら同時的なものと非同時的なものとの同時性とでも言ったであろうものを完成させます。》