●「時間的形態としての都市」でエリー・デューリングが次のように述べていることを昨日の日記で引用した。この言葉は、たとえば桂離宮のような庭園を想起させる。
《(…)ベルクソンはむしろ生成を、平行的に展開する流れの線を集めた一本の束として考察することを提案するのです。あるいは、大きさも樹齢も異なり、それぞれのリズムで生えてくる木々からなる森として、と言ってもいいですし、つまりは何らかの生物集団として考察するわけです。》
庭園には、石組みや土地の起伏(高低差や回遊路)といった、かなり長い時間にわたって安定して固定されうる要素がある(土=土地よりも石の方がより安定しているだろう)。そこに、割合安定しているが、石や土地の起伏よりは壊れやすい、木造建築(書院や点在する茶室)が付け加えられる。さらに、水たまり(池)や様々な植物がある。植物は成長したり枯れたりして常に変化している。常緑樹と落葉樹とでは、季節による変化の具合も異なるし、様々な種によって、成長の速度も異なる。このように庭園は、安定性と変化の度合いや、成長と崩壊のリズムが異なっている、様々な要素の複合によって構成されている。庭園という一つの統合(同時性)は、複数のリズムの異なる持続の束として成立している。
このような日本庭園について、エリー・デューリングは井上充夫を引用しつつ、次のように述べている。
《伊東(豊雄)が表現するネットワークの思想では漂流や夢といった言葉の元に前面に出てくるのは、実は遠隔操作の原理です。これは流動的で連続的な経路に従って、近くから近くだけでなく、遠くから遠くをもつなぐ交流の様態を意味します。》
《実のところ遠隔作用というこのアイデアは、日本庭園の美学の本質的な教えと私が考えるものと合流します。それは非連続的な枠づくりと枠の除去による、断続的な視界の美です。現代的な解釈では日本庭園の中にル・コルビュジュエが「建築的散歩」と呼んだ、場所から場所への連続的移動による視点のつながりの一形態を見ようとするので、私の解釈はそれに対立しますが、しかしこの非連続的な性格は本質的なものです。井上充夫はある見事なテキストの中で、日本庭園の「行動的空間」の中で得られる眺めの経験にある、本質的に遊動的かつ断続的な性格を正当にも述べています。この自然による枠づくりは不動の地点から出発し、そしてこれらの点は運動の「紆余曲折」すなわち「逸脱し、非連続的であり」それゆえそのものとしては決して「全体として観察されることのない」運動に従って次々と占められていかなければならないのです。「曲がった廊下、書院風の家の部屋、回遊式庭園の紆余曲折に満ちた散歩道の中で経験されるのは、不断の変化の暗示であり、かつてあったこと、これからあるであろうことについての無知である。」井上はここで、この話を見事に表現している中世の詩を引用しています。「ほのぼのとあかしの浦の朝露に 島隠れゆく舟をしぞ思う」〔訳注:古今和歌集〕。物思いにふけりながら郊外の電車に揺られ、道沿いにまばらに配置された建物や遊歩道、公園の一部分、木々に半分隠れた神社の屋根、石灯籠などがわずかの間だけ点滅し、遠ざかっていくのを眺めている時にも、これと同じことが起きています。時として視線を遮る平坦な風景は巻物のように、過去の残響のように、過去に思い描かれた未来像のように繰り広げられます。》