バルテュス展の内覧会を磯崎憲一郎さんと(磯崎さんのツテで)観た。代表作と言えるような作品を何点かは見られたので、それで良しとしよう、という展覧会だと思う。もうちょっとがっつり見せてもらえるのかと期待していたのだけど…。
バルテュスと言えば、画家としては、まず何よりもクールベパスティーシュだと言えると思うのだけど、展覧会の会場にも、図録にも(パラパラとしか見ていないから見落としがあるかもしれないけど)、どこにもクールベという名前がないのは何故なのか気になった。ピエロ・デラ・フランチェスカとかプッサンとかカラバッジョとかからの引用は指摘されているのだが。クールベとの類似は、たんに図像的、題材的なところにとどまらず、絵画としての構造というか、油絵具の使い方(表現性)においてみられるもので、クールベは画家によってあからさまに意識され参照されていると思うのだけど。クールベがリアリズムとして開発した手法を、それとは真逆とも言える、書割舞台上での人形芝居のような、引用と文学性と仄めかしに満ちた作品に流用しているという逆説が、バルテュスの面白さの核心であると思う。この展覧会でも、よいと思われる作品のほとんどは「クールベっぽい」絵だった。逆に、日本絵画に影響されているような作品は、まったくモノになっていないように思われた。
●「夢見るテレーズ」という有名な絵があって、だいたい、ぼくが描いた下の雑な絵みたいな構図になっている(下の絵はざっくり描いたもので「夢見るテレーズ」の構図を正確には再現していません。例えば、実物は、少女と向かって左にある机との距離が、もうちょっと開けている感じだったりする)。





一目見て変なのは、これだと画面の上の方が完全に死んだスペースになってしまっていること。さらに、女の子の腕と、机の上に置かれた瓶や壺の上面が、ほぼ水平に一直線に並んでしまっている。こういうことをすると絵の動きが死んでしまうので、普通のバランス感覚だと、少女か、机の瓶や壺かどちらかを、相手に対してもう少し画面の上になるように配置を動かす。これはもう、構図の初歩の初歩だと思う。
でもここではあえて、画面の上の方の空間を間抜けな感じにしてまで、構図の上部が水平なデッドスペースになるように物を並べることで、この絵全体の空間に対して、下へ押しつける抑圧感のようなものをつくりだしている。これは、少女のポーズが「頭を押さえつけるもの」であることと連動している。上にスペースがあいているにもかかわらず、動きはそちらには伸びてゆけず、下へと押さえつけられている(少女の無意識によって、あるいは画家の欲望によって)。しかし、絵全体の「抑圧された感じ」に対して、下半身の部分だけが、だらしない感じで解放され、下着が露わになっている。これは、絵全体のトーンに対して矛盾していると言える。要するに、そのギャップがエロいのだ、と。
(しかも、このような、抑圧と解放との弁証法的対立や緊張から、下にいる猫だけが逃れて自由であって、こっそりとミルク=少女の性器を舐めて、快楽をかすめ取っている。)
こういう演出は、わざとらしいと言えば耐え難くわざとらしいのだけど、そのようなわざとらしい演出が、「意味的な演出」とは無関係であるような、とても端正なクールベ的リアリズムによって描かれているからこそ、面白いのだと思う。少女の下着も、机の上の布も、どちらもたんに布でしかないし、下着も壺も、どちらもたんに物質である、というような描画。演出と描画が別の方向を向いているというか、演出に対して描画が無関心である(無関心を装っている)。演出と、物質的無関心が拮抗している。だから、こういうクールベ的な端正さが少しでも緩むと、たんにわざとらしいポルノみたいになってしまう。バルテュスの面白さは、そういうキワキワなところで成り立っていると思う。
バルテュスに対して、それ以上のことが言えるとしたら、それはおそらく、風景や街路を描いた絵について考える時だろう。しかし、そのような作品(で、よいもの)はこの展示ではあまり観られなかった。