●「個」というのは、偶然と限定で出来ているのではないか。例えば、サイコロの目は六分の一の確率で出る。六万回サイコロを振れば、ほぼ正確にどの目も一万回ずつ出るだろう。しかし、サイコロを六回だけしか振らないとすれば、その六回ですべての目が均等に出ることは珍しく、そこに偏りが生まれる。その「偏り」が個であり、偏りは、六回しか振らないこと(限定)と、その限定された機会に生じた偶然によって出来ている。数多く振れば振る程、偏りは少なくなり、個は薄くなる。
(あるいは、五回しか振らないとすれば、原理的に必ず偏りが生まれる。)
ごく稀に、六回ともすべて同じ目が出ることがあり(46656分の1の確率)、このような極端な偏りを持つ個を、おそらく天才という。
しかし、これは「個」ではあっても「わたし」ではない。「わたし」は、このような形で外側から記述することができない。
とはいえ、「わたし」は、おそらく「意識(内側)」にも還元されない(わたし=わたしの意識、ではない)。
「わたし」とは、世界の内部にありつつ、世界から切り離されて、世界を観測する(わたし自身にとって「唯一」の)視点で、しかもその視点は絶対的に限定されている(世界それ自体とは決して重ならない、世界から「否定」をもってたちあがる)。「個」が、偶然と限定であるとすれば、「わたし」の方は、唯一と限定によって出来ている。「個」と「わたし」とは、限定という共通領域をもちながら(共に限定から生まれながら)、偶然と唯一というズレをもつ。
●「わたし」は、〈わたし〉にとって唯一の世界との接点である。このように二つの階層に分離したわたしこそが、わたしであろう。これを、「わたし」は、〈わたし〉にとって複数ある(あり得る)世界との接点の一つである、とすることができるとする。それにより、前者の「わたし」は「個」とほぼ等しくなり、その唯一性を偶然性に置き換えて消せる。しかし、後者の〈わたし〉の唯一性までは消せない。
(ここで、前者の「わたし」をたとえば一個の――任意の、あるいは一般的な――身体とみなし、世界のなかにあらかじめ組み込まれた――物理法則に支配された――物質ととらえるなら科学に当てはまる。だがこの時、偶然性としての「わたし」と唯一性としての〈わたし〉の分離(≒心身問題)が発生し、それを解決することができなくなる。)
これをさらに、「わたし」は、《わたしたち》にとって複数ある(あり得る)世界との接点の一つである、とすることが出来たとする(どうすれば出来るのだろうか?)。こうすると、わたしの唯一性は、偶然性によって完全に置き換えられ、私は「個(限定と偶然)」に還元されるようにみえる(たとえば仏教?)。
しかしそれでも、この【「わたし」は《わたしたち》にとって複数ある(あり得る)世界との接点のうちの一つである】という文の意味を理解し、それを必要とする「何者か」はあり、それは、世界のなかにありつつ、世界とは分離して世界を観測する者である、ということまでは消せない。
●一月に撮った写真。その一。