●ぼくなんかとは頭の出来がはじめから違うんだよなあということを思い知らされるような人とお会いすることもあるのだけど、でもその時も、勉強ができる系の人と頭の良い系の人とでは基本的な「頭の使い方」に違いがあるということを感じる。以下は雑な類型化だし極端なデフォルメだということを最初にことわっておく。あとこれはあくまで「ぼくなんかとは頭の出来がはじめから違うんだよなあ」というような人を想定していて、一般的な「人間の頭の使い方」の類型ということとは違う。
●勉強のできる人は、既にある秩序や体系や作法といったものを尊重する。ある体系がそのようにあるのには、先人たちによる積み重ねがあり、それがそのように保たれてきた歴史による必然性もある。それを批判したり改革したりしようとする時にでも、まず既にあるものが踏まえられ(現にある世界の分節法が尊重され)、反省され丁寧に吟味され、その作法も踏まえられた上で、それに対する改革案が提示される。それはつまり、常に縄張りと文脈に対する敏感さ(過敏さ)とともに作動する思考だろう。多数のテキストたちが詳細な注のダイヤグラムによって結ばれ合うような関係のなかでなされる思考。既に構築されたものがあり、その構築から導かれる問題があり、その前提で問題に対する回答が、あるいは問題の書き換え(新たな問題の提案)が、探られてゆく。
頭の良い人は、勝手に考え、勝手に勉強し、勝手に理解し、勝手に構築する。そして独自の問題を見出す。要するに縄張り(既にある世界の切り分け法)を尊重しないし、作法を尊重しない。頭の良い人にとってそれらはたんに臆見であり、それらに縛られることこそが思考の飛躍の妨げである。勿論それは勉強しない(先人の知の蓄積を尊重しない)ということではなく、その仕方が違うということ。頭の良い人にとっては、過去を参照するときに縄張りや手続きの作法にこだわることこそが先人たちのなした知の軽視だと映る。だから歴史や文脈の具体性よりもそれらをクリアに切断するような普遍性、法則性、形式性が尊重される傾向がある。とはいえ、頭の良い人は、それぞれに異なるその人独自の「頭の良さ」によってものごとを把握し、思考を組み上げ、問題を見出すので、その表現(分節+構築)は他人には呑み込み難く、問題は共有されにくい。頭の良い人の勉強法は(「思考は」ではない)その人の頭の良さに最適化されているから汎用性がない。
●勉強のできる人は歴史や文脈に限界づけられ(ということは逆に、それこそが彼の味方であり)、頭の良い人は自分自身の「頭のよさ(の固有性)」に限界づけられている(つまりそれが味方である)とも言える。最良の「勉強ができる人」と最良の「頭の良い人」の間には、自分とは異なる「頭の使い方」への尊敬を通じた関係が成立するんじゃないかと思う。本当は、異なる「頭の使い方」をハイブリッドで使えるというのが必要だと思うのだけど、それはきっととても難しい。
●どちらにしろ、中途半端にしか優秀ではない人においては、その「頭の使い方」の欠点が露呈する。勉強ができる人はしばしば頭の良い人の「手続きの不十分さ(不正確さ)」を批判し、頭の良い人はしばしば勉強の出来る人の「不寛容さ(党派性)」を軽蔑する。実際、半端に勉強ができる人には創造性や柔軟性に欠ける傾向があり、半端に頭の良い人には思い込みやうっかりミスを修正するのが難しいという傾向がある。
●ここから話がかわってアニメのこと。『翠星のガルガンティア』四話。うーん、丁寧につくってあるのは分かるけど、何か冴えないというか、薄いというか、浅いというか。絵に描いたような人間賛歌的な現地の人たちと空から降ってきた感情のない戦士+AIの交流という構図に、紋切り型の白々しさをどうしても感じてしまう。ただ、例えば『ゼーガペイン』みたいに、「この世界」はひっくり返されることが前提で構築されている、というような気配もあるで、もうちょっと様子をみたい。