●引用、メモ。「思想地図」の千葉雅也のテキストを読んで知ったのだが、「表象」02号に載っているマラブーのインタビュー(「可塑性とポストヒューマンな未来」)がすごく面白い。ここで話題になっている『新たな負傷者たち』という本は翻訳される予定はあるのだろうか。
以下、(1)として引用する部分は、≪皮膚、筋肉、臓器、脳の一部など、あらゆるものがいまや、自らによって代替されようとしています≫という風に語られる、自らが自らによって代替されるという究極的な自己言及についてであり、それは例えば、脳そのものを対象化した脳自身によるはたらきかけが、脳に(決定的な)変形を与えてしまうということが実際に技術的に可能になったというような現状に関するもの。(2)として引用する部分は、だがそのような条件のなかでの自身へのはたらきかけは常に「暴力的な外傷」としてあり、その時自己は、自己のままでありながら、その前と後ではまったく不連続となってしまうこと(同じ「脳」でありながら、まったく異なるモノとなってしまうこと)、つまり、それ以前の場所には「決して戻ってこられなくなる(回復、回帰がまったく不可能になってしまう、過去への通路が途切れてしまう)」ということにかかわる。それは、わたしがわたし自身によるはたらきかけによって、わたしでありつづけながら、まったく別ものへと変質してしまう、というような形での、「わたしのわたしに対する関係」(が、可能になってしまったこと)が、問題とされているように思う。あるいは、決して元へは戻ってはこられない場所へ行った(「A→/→A’」となって過去や原初から隔絶された)として、そのわたし「A’」(人間)はそれでもなおわたし「A」(人間)でありつづけていると言ってよいのか、ということにかかわる。これはぼくには、楳図かずお的であるとともにベケット的な問いであり、荒川修作的な問いでもあるように思われる。
さらに言えば、このことは一昨日引用した郡司ペギオ−幸夫の言う、XをXとして認識する−気づく時、それは「XはXの同一性を維持する限りにおいてXである」という構造をもつという話とも繋がる。その都度、「XであるところのX」としてしか「X」が見出されないとすれば、その「Xである(同一性)」は、具体的な個物として見出されるたびごとに「同一性を維持したままで中身は変質を被っている」とも言える。つまり「まったく同じでありつつ、少しずつ違ってゆく(自己自身による自己の代替)」というありえないことが、時間のなかで経験的認識がなされるたびに普通に起こっているということにならないだろうか。
ただ、このインタビューだけだと、例えば脳に深刻な外傷を負った人が過去から隔絶される(新たな存在となる)としても、それがどの程度のものなのか、どういう形でそうなのか、その具体的な感触がわからない。だから翻訳が出ないだろうかと思うのだが、しかしそれは、マラブーの本を読むよりも、河本英夫とか宮本省三の(「哲学」に傾きすぎていない)本を読む方がいいのかもしれない。
(1)
≪ええ、実際、一世紀もの間、生物学者たちは私たちの脳の可塑性について明らかにしてきました。つまり、外部の世界と相互作用し、自らの能力を転位する脳の特性について。もちろん、そのことは現在も当てはまることです。けれども私が関心を持っているのは逆の方向の運動なのです。つまり、こんにちになって脳が、自らを再生し、自らを補うことができる器官として現れ始めているということ、脳が自らを機械のように扱うようになりはじめている、ということです。問題となるのは脳と機械の関係というよりはむしろ、頭蓋の自己管理のようなものなのです。これが新しいパラダイムです。≫
≪例えば深刻な冠動脈疾患で心臓移植を受ける必要があるとしましょう。近い将来に起こることは、こうした場合に他の人体から器官を移植する必要がなくなるだろう、ということです。私たちは器官自体に書き込まれている再生可能性を利用して、器官に自己修復させることができます。例えば手が切断された場合には、義手のかわりに自分の手を再び育成することができるようになるでしょう。皮膚、筋肉、臓器、脳の一部など、あらゆるものがいまや、自らによって代替されようとしています。≫
≪DNAが私たちの身体すべてを形づくり、身体が自ら発達し様々なかたちを持ち……、そういったことはもちろんあります。けれども、私が話しているのはそういうことではなくて、あるかたちでのDNAの再プログラム可能性についてです。つまり、もしDNAの自己表現になにか問題があった場合に、それを特定の仕方で再プログラムすること、そのメッセージの一部を変更し、関係づけなおすこと。こうしたことは、まったく新しいことで、ごく最近までは不可能だったのです。≫
(2)
≪(…)脳の構造そのもの、あるいはDNAコードの構造そのものに手を加えるときには――そして、それは必ずトラウマ的身振りにならざるをえないのですが――、手術によるものであれ、事故であれ、それは常に暴力的な干渉でしかありえません。(略)
誰かのプログラムが損傷され、変更されるとき、それは常に致命的なものなのですが、そのとき彼/彼女はどのような変容を被ることになり、その後その人物はどんな存在になるのでしょうか。私の言葉ではこれがネガティブな可塑性であり、ここで問題となるのは、自分自身を生き延びるということです。それは死でも生でもなく、ある種その中間にある生き延びそのもののです。私が思うに、ここで私が説明しようとしていることは、いかなる外科治療による介入においても共通して起こる事柄です。≫
≪新著で詳しく述べたことですが、アントニオ・ダマシオの研究が紹介しているように、脳の損傷を被った患者たちは、まったく無関心になってしまう。つまり、彼らは生きてはいるのですが、自分の生に対するいかなる関心も失い、活発さを失ってしまうのです。
こうした問題に関して私たちの文脈で重要な問いとは、こうした人々を機械と比較することができるか、というものです。生は、それ自体で機械的になりうるものでしょうか? これが私の問いかけです。私はどんな種類のテクノロジーにも、それ自体としては関心がありません。いまや、生がそれ自体で、その内部において、いかなる人工的な装置も介することなしに自らテクノロジーになろうとしているのですから。≫
≪(…)脳に深刻な外傷を負った患者の場合、原初的な人間に回帰するのではなく、回帰の運動そのものが消え去る。(略)フロイトは、神経症患者はヒューマニティのより原初的段階へと遡るのだと考えました。つまり、それはある種の初期の段階の記憶への回帰であり、時間を遡ることです。それとは逆に、深刻な脳の外傷を受けた患者は、原初的な段階へと遡るようなことはありません。私が思うにこんにち神経病理が示していることとは、まさにそのことです。(略)例えばアルツハイマー病を患っている者は、子供になったり、原初的段階へと戻ったりするのではありません。彼/彼女は、まったく新しいなにものかになるのです。≫