ソクーロフの『静かなる一頁』をビデオで

ソクーロフの『静かなる一頁』をビデオで。これは多分、ぼくがはじめて観たソクーロフで(確か、六本木にあったシネ・ヴィヴァンでやっていたように思う)、観たのはその時以来。ソクーロフは、好きかと言われると、うーん、という感じなのだが、観てみればすごく面白い。試写で『ファザー・サン』を観て、薄れかけていた興味がすこし蘇った。
●映画では、ひとつのショットはとりあえずひとつの連続した時間・空間を示すと言えるのだが、それが別のショットへと繋がれる時に、いかに滑らかに繋げようとしたとしても、そこにはショット自身が内包する時間の異なる質があり、不連続性があるので、本当は滑らかには繋がっていない。ワンシーン、ワンショットを徹底すれば、ショット=時間の切断が、そのまま自然に空間の移動と重なるだろうが、そうでない限り、映画はひとつの場面(空間)を、複数の異なる質の時間(持続の亀裂)によって描き出すことになる。複数のショットによってひとつの空間を組み立てる時の、その全てのショットを貫く連続性(滑らかさ)と、しかし実はバラバラであるという不連続性(凸凹し、ぎくしゃくした感じ)との「配合」のあり様が、その映画のあり様を決めると言える。例えば小津なら、繋がらない視線のぎくしゃくした不連続性を、アクションのなめらかさ(人の動きがとまる瞬間と動きが始まる瞬間をカットすること、つまり、人が動きをとめる寸前でショットを切り、人が動き始めた直後から次のショットをはじめる)やリズムの滑らかさによって連続性をもたせる。視覚的な空間の不連続性によって、ひとつひとつのショットの粒立ち(時間の質の異なり) が強調され、しかし、ある一定のリズムがなめらかに持続することで、実在の(リテラルな)時間とは別の、(一つの秩序だったものとしての)作品としてのまとまった持続をつくりだす。(ここでモンタージュという言い方をすると、イメージとイメージとのぶつけ合わせみたいなニュアンスになり、複数のイメージをぶつけることを可能にしている基底的なものとしての時間(リズム)や、イメージの発生を可能にしている基底的なものとしての空間、というものへの意識が希薄になってしまうように思える。)
ソクーロフの『静かなる一頁』で、物語としての繋がりや関係性が希薄な複数のシーン、歪んだ空間の不連続性、かなり不安定に変化する脱色したような暗い場面の調子、そして、内包する時間の異なる複数のショット、等の、凸凹したものたちを繋げているものは、先ず何よりも「音」であるように思う。不連続な、複数の異なるものたちからなる視覚的要素に比べ、人々のざわめき、水音、そしてそれらの隙間から染み出て来るように響くマーラーの曲、などの音は、一つに溶け合うかのように混ざり込み、強くなったり弱くなったり、前面に出て来たり後退したりしつつ、通奏低音のように、波打ち際の波の音のように、ずっと持続することで、ひとつの環境を形作る。音が、音として独立して、ずっと持続することで作品世界を安定させているということは、言い換えればそれは画面とは別の原理、別の出自によって成り立っているということで、音と画面とが乖離しているということでもある。だが、全く乖離しているというわけではない。例えば、水音は、画面に頻繁に現れる水の映像や、映画全体を湿気で満たしてしまうかのような、二重露光された湯気の映像と繋がりをもっていることは確かなのだが、この二つの関係がどのようなものであるのかは、明確には分からない。映像は映像で勝手に、音は音で勝手に、水や湿気を感じさせる指標を、そこここにあらわすのだが、その二つが明確にリンクしていないので、現実に(物質的な確かさで)「水」がある位置が確定されず、つまり「水」という物質が現実的なものとして構成されないので、水が常に水の気配のまま、現実の一歩手前の次元に留まり、かっちりとした輪郭を持たず、それによって逆に、全ての場所に偏在するかのように感じられる。(この映画では、人々=群衆も、水分と同じようなものとしてあらわれている。)
●俳優の動き(映像)とセリフ(音)は、普通に同期してはいるのだが、水と水音、群衆とそのざわめく声との関係(同期)があやういため、俳優とセリフの同期そのものもまた、怪しいものに感じられてしまう。確かに、俳優が喋るような仕種をすると、声が聞こえてはくるのだが、しかしその声は、本当に俳優(映像で示されている人物)から発せられたものなのかが、どこかで信用できない。このようにして、この映画ではいたるところで、明確な位置関係や距離が歪まされ、不確定なものさせられ、それによって、様々な要素が、現実的な次元という着地点を見出せないままで、漂うことになる。この映画のあらゆるショットは、遠すぎて見えずらい、か、近すぎて見えずらい、という感じなのだ。この映画のラスト近く、少女の部屋に青年が訪ねるシーンでは、古典的な同軸上の繋ぎのような演出=編集がなされているのだが(これはおそらく、青年の不安定さに対し、少女の(大地との関係を保っているような)安定性を示そうとしたのだろうが)、しかしそこでさえも、古典的な編集が保証してくれるような空間の安定は感じられない。(視線が、いきなり遠くに引きすぎ、いきなり近づきすぎる、という感じなのだ。)
●この映画の、旋回しながら、上昇し、下降するするような不思議な空間(上昇しつつ、下降する、上昇することが下降することであり、下降することが上昇することであるような空間)は、どことなく、宮崎駿が好む地下空間を思わせる。