アレクサンドル・ソクーロフ『ファザー、サン』

●東銀座の松竹試写室で、アレクサンドル・ソクーロフ『ファザー、サン』。ソクーロフが何をやろうとしたのかはよく分からないのだけど、やたらと面白い。タイトル通りに父と息子の話で、父と息子のよく分からない濃密な関係が描かれるのだけど、ソクーロフと言うとすぐ連想しがちな、神経質そうな、実存の重みに耐えかねつつ生きているような人物が出て来るのではなく、妙に健康的なマッチョな親子が出てくる。父親の方は、どことなくシルベスタ・スタローンと(何故か)田中健を連想させるような感じで、この人が終始やさしげで意味不明の笑顔を浮かべていて、この気色悪い(心理や内面を感じさせない)笑顔が妙に印象的だ。早朝、朝露と汗で裸の全身を湿らせた父親が、屋外(屋根の上)で筋トレをしているシーンがあるのだが、この時も顔はやさしげな微笑みをたたえている。あるいは、いきなり学校に息子を訪ねてゆき、その訪問にどのような意図があったのか観客にもまったく分からないのだが、そこでも意味不明ににやにやと薄笑いを浮かべている。この時の、やけに遠慮がちな物腰はすごく「意味ありげ」なのだが、その意味があかされるわけでもない。そして一方、息子は息子で、父親の肺を写したレントゲン写真にうっとりと見とれていたりする。父親はどうやら、身体を壊すか何かして軍隊を退役した人物らしく、息子は、軍へ入るための学校へいっているらしい。冒頭のシーンで、悪夢にうなされる息子を、父親が身体を擦るようにして受け止め、なだめるシーンがあるので、息子はひ弱な感じかと思うとそうではなく、がっしりとした体格で、家にある吊り輪(何故か玄関を入ってすぐのところに吊り輪がぶら下がっている)で軽々と倒立してみせたりする。
●この映画に、ソクーロフ独特の重さというか、停滞感が希薄であるように感じられるのは、登場人物が、実存的な悩みを抱えてうずくまるよりも、朝露のなかで筋トレしたりすることを好むような、自分の身体に対する自信によって(割合屈託なく)支えられているような人物であるからかもしれない。その分、この映画では父と息子の関係の「近さ」が、あからさまに身体的な距離の「近さ」によって表現されている。(マッチョ好きの人のためのソフトポルノみたいな怪しげな雰囲気が一貫して漂っている。まあ、神話的なというか、アルカイックな感じを狙ったのだろうけど。)
●この筋肉親子は冒頭からいきなり肌と肌とをはげしく擦り合わせている。そこでは、互いの呼吸音や肌が擦れる音が生々しく拾われる。その後も息子は学校で、体術の訓練で同級生と激しくもみ合う。(それを父親が覗き見するように観ている。)その直後、息子は学校で恋人と別れ話をすることになる。窓越しの切り返しで捉えられるこのシーンでは、そこまで近寄るのか、というくらい、カメラが二人の顔に近づく。(しかし窓枠に邪魔されて、顔の全てが見えるわけではない。)あまりにも顔に近いため、このシーンでは二人の顔は、肌の質感ばかりが強調される。(顔を観る、というよりも、肌を触れるように観る、ことになる。)つまり、冒頭から、これでもかという感じで触覚的な徴が強調される。しかしここでは、父と息子の距離とが、常に近過ぎるのに対し、息子と恋人とは、(カメラと息子、カメラと恋人とは近いのだが)窓枠によって隔てられているので「距離」があり、「気持ち悪い」感じはない。ここで恋人との別れ話のシーンが挿入されるのは、父親と息子のあまりの「近さ」を強調するためなのかもしれない。(息子と恋人は同一のフレームに納まることはなく、常に切り返しによって会話する。父と息子が学校で会っているシーンで、フレームの隅に恋人がチラチラ写っているのが面白い。)
●この映画では、多くのシーンにやわらかく加工された西日のような不思議な光が当たっている。全体としては、薄曇りの日のような、光の差してくる方向がわからないような、どんよりと光が偏在するような(どこか分からない場所から、光が洩れ、滲みでてくるような)状態で、そこに不自然に西日のような光が射す。光は極めて人工的にある一定の調子にコントロールされていて、例えば、光によって時間帯が特定されることはない。そして音も、特定の音源から発せられているというよりも、どこか地の底のような場所から洩れて来る感じだ。ある場面で、観客席の誰かがぼそぼそ喋っているのかと思ったら、その音は画面の方から聞こえて来るのだった。
●この映画で最も面白いのは、父の軍隊時代の友人の息子が訪ねて来るエピソードの部分だろう。いきなり訪ねて来て、父と親しそうに話すこの男を、息子は嫉妬したのか、父から無理矢理引き離し、自分の部屋へ連れて行くのだが、この時、頭突きするみたいに、頭で男の身体をぐりぐり押したりする。さらに場面は唐突に、息子の部屋の窓と、隣の建物にある息子の友人の部屋の窓とに掛け渡された板きれの上へと展開する。かなりの高さのある(しかしこの「高さ」が具体的にどれくらいなのかは明示されない)、今にも折れてしまいそうにギシギシいっている空中に掛けられた巾の狭い板きれの上で、突然、息子とその友人がじゃれ合うアクロバットが見せられるかと思うと、訪ねて来た男もその上に強引に引っ張り出される。この、きわめて唐突な高さの導入と空間の展開が(そしてアクションの導入)素晴らしい。この後、息子と男とは外で待ち合わせて、二人で街を散策する。坂が多く、道幅が狭く、路面電車の走る、この街を散策する描写がつづくのだが、この描写がとても良くて、このシーンがもっと長くつづけばと思わずにいられない。(映画は冒頭からずっと、学校の一画を除けば部屋のなかだけで進行するのだが、この男が訪ねて来る直前から、部屋の中と外との中間のような、屋根の上の空間があらわれ、この「屋根の上」はその後、映画の主要な舞台となる。このような空間の展開も含め、この映画はソクーロフにしては「軽快」な感じすらする、ある運動感を獲得している。)
●ただ、最後まで、父親の薄ら笑いだけはには、どうしても馴染めないものがあったのだが。
(『ファザー、サン』は、4月から渋谷のユーロスペースでレイトショー公開されるそうです。)