ソクーロフ『太陽』

●昨日観たソクーロフ『太陽』について。この映画の面白いところはなんといっても、二度ある、昭和天皇マッカーサーとの会談のシーンだろう。この映画は、昭和天皇を、不可解な怪物というか、珍しい野生動物のように描きだしている。(言い直せば、たんに不可解な怪物としてではなく、その不可解さを、珍しい野生動物を観察した結果得られたとでもいうような、詳細な描き込みで造形している。)それが実在した人物とどの程度重なっているのかは知らないが、ソクーロフイッセー尾形によってつくりだされた、この不可思議なキャラクターは、とても魅力的だ。そしてそのキャラクターの面白さが最も際立つのが、マッカーサーとの会談のシーンなのだ。常にまわりにまとわりついている日本人の従者たちから離れて、たった一人で戦勝国の責任者と対面する時(とはいっても、ここでも彼は別の視線から「覗き見られている」のだが)、この、子供のような、無邪気で、頓知感で、ユーモラスで、責任の自覚もなく、しかし一方で、(責任という概念とはまた別の)重たい重圧を常に感じ続けている、大変に教養があり、思慮深くもあるキャラクターの像が、もっとも強く、くっきりと浮かび上がる。このようなシーンを「構想する」ことくらいなら、ある程度知的な人なら可能なのかも知れないが、このシーンを、これだけのものとして実現させることが出来たソクーロフはやはり凄い映画作家だと思うし、なにより、それが可能だったのはイッセー尾形の存在によるところが大きいだろう。
映画として観れば、ソクーロフの作品としては特に凄いというものではないと思う。日本人の従者との関係の描き方などは、たんに戯画的であるところに留まっている(つまりそれ程出来の良くないと思われる)シーンも多いし、空襲を夢として表現しているCGを使ったシーンなども、これでよいのかどうか疑問だ。ただ、この映画を観終えた最初の感想は「イッセー尾形は凄い」であって、つまり、昭和天皇の人物造形の面白さがこの映画全体を支え、成立させているのだと思う。この人物は、歴史上の人物としての昭和天皇であると同時に、多分にソクーロフ的な人物である。だからこの映画は、直接的に、歴史的、政治的、社会的言説に対しての言及としてあるのではないだろう。しかし、昭和天皇という実在した人物を、このような人物として造形したことのなかに、ソクーロフの歴史に対する視線がある。この映画では、昭和天皇人間宣言を決意するに至る過程が説得力をもって描かれているとは言えない。(マッカーサーとの会話はひたすらすれ違うばかりだ。)しかしこの映画ははじめからそのようなことは目指されていない。ただ、このような時代の、このような位置(役割)に、このような人物がいたのだ、ということだけが示されている。それは逆に言えば、「この時代」の「この場所」が、このような人物を生み出したのだから、この人物によってそれらが表現される、ということでもあろう。
(それにしても、昭和天皇の役をやるというだけで、おそらく大変なプレッシャーだろうと思われ、この役を引き受けたというだけでイッセー尾形は相当偉いと思うのだが、それをここまでやってしまうのは、本当に凄いことだと思うのだった。)