府中市美術館で、松浦寿夫の公開制作「林と森---筆触の論理学」を観てから、吉祥寺のA-thingsで、柴田健治展を観て、バウスシアターでソクーロフ『太陽』を観た。
府中市美術館では、松浦氏の作品が二点(+小品一点)展示されていて、制作しているところのビデオが流されていた。(あと、制作の過程を段階的に示す写真が貼られていた。)絵を描くのに特別なテクニックなどないし、特別なテクニックによって絵が良くなるなんていうこともない。誰でもが、キャンバスに絵の具をのせることで絵を描く。しかし、だからこそ、「絵を描いているところ」には、その画家の全てが出てしまう。どのようなやり方で絵の具を扱うか、どのようにして絵の具をキャンバスと触れさせるか、どのようなスピードで筆を動かすのか、筆はどのような動きをみせるのか、キャンバスと画家とは、どのような距離感で関係するのか。ビデオの映像は、色彩をどぎつく写すので、色彩の微妙な調整の仕方などは分らないけど、しかしそんなことは実際の作品を観れば分る。
制作の過程を段階的に写した写真をみると、松浦氏の制作の進行が、淡々と順序を踏んで行われていることが分る。途中での迷いとか、ある色彩や形態が付け加わることで方向性ががらっとかわってしまったりとか、急激に進展するとか、そういう瞬間がなくて、作品は、少しずつ、しかし確実に、進んでゆく。ビデオでみられる映像でも、松浦氏の動きは淡々として、一定のリズムが崩れない。筆(というか、細いヘラのようなもので絵の具を画面に擦り付けるようにしているのだが)の動きが迷ったり、乱れたりすることがないし、逆に、画面に入り込むように、激しく(あるいは早く)なることもない。ぼくは松浦氏はもっと「遅く」描く人で、もっと描きあぐね、描き淀むように描く人なのかと思っていたので、淡々としたというか、サバサバしたような進行は、ちょっと意外だったのだけど、しかし、松浦氏の作品からいつも感じられる、ある種の淡白さというか、(例えばボナールの作品にはあるような)「粘り」のなさについて、なんとなく納得出来た。
筆(ヘラ)が画面に触れている時の動きは、やや粘りのない淡白なものではあっても、一発で決めようとするようなものではなく、画面の上で(絵の具を擦らせるように)何度も探りつつ行きつ戻りつするように動く。ガリガリと引っ掻くように、何度も往復しつつ、それが少しずつズレて、ある形態を浮かび上がらせる。しかしこのリズムもまた一定で、迷いながら何かを探っているという感じではない。よく知った道を、一定の速度で歩きながら、ちょっと横道に入ってみて、また直ぐに戻って来る、ということを繰り返しながら、少しずつ先へ進む、というような感じだ。おそらく、一定の速度であることは松浦氏にとってとても重要なことなのだと思う。例えば、画面の絵の具をのせるヘラの太さは、画面のどの部分に手を入れている時も、どの色を使っている時も、同じで、つまり画面に触れる「単位」が常に一定であることが必要なのだろう。
最も特徴的だと思ったのが画面との距離感で、松浦氏は、後ろに下がって画面を引いて見ることをほとんどしない。下がる時も一歩か二歩くらいで、だからおそらく描いている(画面に触れている)時に画面全体を「見て」はいないと思う。つまり、画面全体の空間は(その進展や変化は)、「見る」こととは別のやり方で把握されているということだろう。それは、色彩を重ねるプロセスや、筆(ヘラ)を動かす身体の運動や、画面に触れるストロークの重ね方などによって把握されるのだろう。つまり「見る」ことで画面を一気に把握したり、「見えること」の効果によって画面を組織しようとはしていない。こういう点は、すごく信用出来るというか、変な言い方だけど、この人は「画家」なんだなあ、と思う。それが良いか悪いかは分らないけど、作品の発想からそれを具体化させ進展させるに至るまで、その過程や思考の全てが絵画というメディウムと不可分に結びついていて、全てが絵の具とキャンバスを使う「絵を描く」というプロセスの内部にある、という感じだ。(だからこそ、画面に触れるリズムの単調さが、作品に決定的に「淡白さ」を刻んでしまうのだと思う。)
●それにしても、他人が「描いているところ」を見るのは、「自分とは違うところ」がとても刺激になる。ぼくも画家なので、映像をみながら「描く人」の身体と半ば同化しているから、動きや触感や距離感が自分と「違う」と、違和感がまるで自分の身体のなかから浮き上がってくるように感じられるのだった。自分だったら絶対にこういう動き方はないな、という、ストロークの動きのちょっとした違いにすら、妙にもやもやした感じになって、身体の中のなにかが揺さぶられる感じになる。
●展示されている作品はかなり良いものだと思ったけど、ただ、すごく気になったのが、色彩としてでも形態としてでもなく、ただ画面をデコボコにする効果のためだけに使われている白い絵の具の「使い方」が嫌な感じだ、ということだ。それが凄く効果的に使われているからこそ尚更、これはやっちゃ駄目でしょう、と思うのだった。
●今朝の散歩06/09/24http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/sanpo0924.html
今朝の散歩06/09/24(補遺)http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/sanpo09242.html
午後からの散歩06/09/24http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/sanpo09243.html