今年に入ってからは毛筆を使ったドローイングばかり描いているのだけ

●今年に入ってからは毛筆を使ったドローイングばかり描いているのだけど、毛筆で描く線は、色彩に匹敵するくらい、というか時には色彩以上に、表情が多様で、不安定で、捉えがたい。最近のドローイングは基本的に紙の上に墨汁で描いていて、それも水墨画のように濃淡をつけたりはしていないから、色としては紙の色と墨の黒との(きっぱりと別れる)二色だけで、中間的な階調はない。だが、毛筆による線は、ほんのわずかな手の力の具合、緊張の度合い、勢い、速度、集中と弛緩、迷いやためらいなどを敏感に反映させてしまい、とてもその表情を意識的にコントロール出来るものではない。それでも(今度展示するドローイングの多くはそうなのだが)、今までは細い筆に少量の墨汁をつけて細い線で描くことで、線の表情を割合と一定に保つようにやってきたのだけど、ここ何日かで、ふと思い立って(ぼくは自分の作品を変化させる時はいつも「ふと思い立って」で、計画的、意識的にやって上手くいったことがない)太めの筆(といっても、学校の習字の時に使うくらいの太さ)を買ってきて、それにたっぷりめに墨をつけて描いている。たっぷりと墨をつけて、ゆっくりと動かす筆によって生じる線は、前述したがとてもコントロール出来ないくらいに多様な表情で、何というのか、とても強く、記憶や情動へとはたらきかける力がある。自分で描いてみて、そのことにいまさらながら驚くのだ。まだまだ、その多様さをなかなか使いこなせなくて、振り回されている段階ではあるのだけど、その、たっぷりと果汁が染み込んでいるとでも言う感じの線(しかしこれは既に「線」という概念では捉えられない)が、描いていてとても面白い。たっぷりと墨のついた太めの筆は、あまりに敏感にこちらの体勢を反映してしまうので、線を引こうとするとき、こういう線を引こうというイメージを持っても絶対その通りにはならないので、いっそ線そのもののイメージはもたず、描く時の姿勢や、速度や、呼吸や、感情に出来るだけ幅をもたせ、単調にならないようにすることだけに集中して、線はその結果として紙の上に残される、という感じで描こうとする。その時、自分でも驚くくらいに意外な表情が生まれて、自分が引いた線に(自分の感覚が)触発されて、作品が動いたりする。しかし画面はただ線の表情の多様さだけで出来ているわけではなく、それぞれの線の互いの関係(や無関係さ)を、平面上の配置によってつくらなければならないという側面もあり、そこで「画面を作ろう」として入れた線が、(線の表情が豊かであるため誤摩化し様もなく)ミエミエにわざとらしいものになってしまって、画面全体を台無しにしてしまうのだった。
●毛筆を使ったドローイングをはじめようと思った最初の頃も、太めの筆を使って試してみたのだが、その時は全然上手くゆかなくて、それで筆ペンとか、(文房具屋で「写経用」として売っているような)細めの筆を使って描いていたのだったが(6月に展示するのは主にこの時期の作品になると思う)、改めて太めの筆を使ってみたら、作品としてまとめるには、まだまだかなり振り回されぎみとはいえ、線(というか、もはや「線」とは言えないような線)そのものとしては、けっこう面白い線が引けるようになっていたので、今年の前半かけてドローイングばかりやってきて、多少は進歩したのだろうと思えた。
●線の表情というのは、「線そのもの」だけで決まるのではなく、あくまで「紙の色」との対比によって生じる。太い線と細い線との表情の違いは、その黒い部分の幅によって生まれるだけではなく、紙の白の面積との関係や、黒と白がぶつかるエッジの当たり方や表情、そして残された白の部分の(ネガティブな)形態との関係、さらに、紙の質感と墨の質感との関係など、それら全ての総合によって生じる。だから、白い紙の上の墨の黒という、(いってみればデジタル的な)きっぱりとした二色だけの画面で、色彩以上の含みと幅(と、不安定さ)をもち得ると思う。