A-thingsでのドローイング展示(http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/a-things.html)の初日。昨日いきおいで、展示されるドローイングの点数が六十点以上だとか書いてしまったのだけど、今日、ちゃんと数えてみたら全部で五十八点だった。
●今月の末に、出身大学でレクチャーをすることになっていて、ギャラリーにいて、人が途切れた時などに、どんな話をしようかメモをとりつつ考えていたのだけど、途切れ途切れの時間なのであまり集中できない。思いついたことをいくつかメモした程度。
●昨日もちょっと書いたけど、ドローイングを描いている時は、その時々で、一枚一枚の作品それぞれが、それぞれで自律して何を語っているかというようなことが問題となっていて、つまり一枚一枚がそれぞれ一つの作品として完結しているものとして描かれているのだけど、ある一定の時間のなかで描かれた多数のドローイングが同一空間のなかで(一望できるように)配置された状態で観ていると、個々の作品の完結性と同じくらいの強さで、それぞれの作品の間の差異というか、ばらつきやブレやムラも見えてきて、あるいは、フレームを超えた呼応のようなものも見えてきて、それが「ざわめき」のように感じられて面白い。この時重要なのは、個々の作品のもつ、個々の作品としての完結性や強さと、それらがまとめて展示された時の作品間のざわめく差異の強さとが、拮抗していなければ面白くないということで、だから、個々の作品を描く時に、あらかじめ並べて展示した時の差異の効果をあてにして、バリエーションの幅をつくっておく、というようなことをすると、個々の作品の作品としての強度が失われてしまうだけでなく、差異や呼応のざわめきも同様に、わざとらしくて単調なものになってしまうだろう。個々の作品を描いている時はあくまで、その時にしたいと思った事をその時に出来る最高の精度で行うことが目指されて、かつ、それが一つの作品としてのそれだけで成り立つ完結性をもつことが目指されていなければいけない(いけない、というより、面白くない)と思う。
●それにしても、まとめて展示してみると(自分で観ると)それぞれの作品の間に思いのほかブレがあるので驚く。線の表情ひとつにしても(明らかに「太い線」で描かれたものはまた別だけど)そんなに意識的に変えているつもりはないのに、後から見返すと、描かれたそれぞれの「その日」によってかなりの振れ幅がある。実際、毛筆で描かれる線は、驚く程その時の気分のようなものが反映される。勿論、その「気分」のようなものを「表現」したいわけではないのだが、結果として気分が反映されてしまうことが、それぞれの作品の強さや複雑さを支える要素となっていると思う。
●あと、今日、妙にエロい感じがする、というようなことを言われた。その人がどういうニュアンスでエロいと言ったのかは明確には把握出来なかったのだけど、黒い線だけでドローイングを沢山やっていて思ったのは、白い紙に黒い線だけで描いていると(茶色っぽい紙だとそうでもないのだけど)、なにか「不用意に」という感じで、ふっとボリューム感が立ち上がって来ることがしばしばあるということだ。普通に考えると、ボリュームを出すのには陰影をつける必要があると考えがちだけど、むしろ陰影をつくる中間のトーンなしで「線」だけの方が妙に「肉っぽい」ボリュームが生々しくたちあがりやすいのだった。はじめのうちは、かなり意図的に抑制して、ボリュームが出てこないように気をつけていたのだが、だんだん枚数を重ねるうち、その不思議と生々しいボリューム感を作品のなかで或る程度上手く使えるようになってきて、最近の作品では、(あまりそればかりが突出しないように抑制しつつも)意図的にボリューム感を使ってみたりはしている。何というのか、黒い線を引いた時にあらわれる白い紙の生々しさが、どこか「肉(ボリュームを内包した肌)」の感触を匂わせるところがあるように、ぼくは感じている。