2022/07/12

●『戒厳令』(吉田喜重)をU-NEXTで。これはちょっと苦手なやつ。途中で何度も眠くなってしまう。その理由の一つに、ぼくが俳優の「怪演」によって支えられているような映画が苦手だ、ということがあるかもしれない。

『エロス+虐殺』の大杉栄細川俊之は、どこまでも飄々としているというか、暖簾に腕押しのようなふわふわした感じで、だから、終盤の日陰茶屋事件の描写などは、相当に執拗だし(ほんとにしつこい)緊迫もしているのに、それでも息苦しさはあまり感じられない。だが、この映画の北一輝三国連太郎は、最初から体を硬直させて、息遣いも粗く、こちらに息を詰めた凝視を要求するように存在している。北は、恐怖というオブセッションに繰り返し襲われ、身体の緊張の度合いを高め、それを観る我々を緊迫させる。そして映画は、あんまり動きがなく、じっくりと展開される。

また、おそらく意図的にだと思われるが、(極端なフレーミング以外は)視覚的に地味な感じにしている。三国連太郎以外の俳優は、いわゆる芸能人的な俳優ではないような地味な見た目の人を選んでいるし(だから一層、三国連太郎ばかりが際立ってしまうのだが)、吉田喜重の映画には珍しく、おしゃれな衣装や小道具がほぼ見当たらない。全体に、地味でもっさりした感じの見た目にしてある。このことが、ゆっくりと流れる流れに滞りを感じさせる一因でもあると思う。

この映画の「滞り感」のもう一つの理由は、関係の変化がほとんどないというところにもあるのではないか。北一輝は常に北一輝であり、その妻は常にその妻であり、西田税は常に西田税であり、兵士たちは常に兵士たちであって、役割や関係に揺らぎがない。ただ唯一、北からの「連絡」を受けて自らの意思でクーデターに参加したにも関わらず何もできずに終わって、その後に何をしたらいいのか分からないと言って幽霊のように北一輝に付きまとう下級兵士と、さらにその兵士に幽霊のように付き従うその妻が、何をしたらよいか分からなさ過ぎて裏切って密通者(スパイ)になってしまうという変化があるくらいだ。この反転(裏切り)は、メタレベルの位置を確保しようと気を配っている北を、隠れた首謀者の座から引きずりおろして、オブジェクトレベルで兵士たちと同等の死をもたらすという変化を起こす。だがこれは最後のどんでん返しであって、途中の展開での関係の変化はほとんどないように思う。

(北は、法華経を読経する習慣があるように描写されるが、終盤になると読経する役割は妻に移行している。しかしこれは、関係---位置取り---の変化というほどのものではない。北は、罰せられることを望み、自傷行為を繰り返すマゾヒストとして描かれているが、それによって妻との関係が変わるということもない。)

とはいえ、この映画の停滞感は意図されたものであるだろう。この映画は待機する映画だ。北は繰り返し、今はことを起こすな、先に動いた方の負けだ、と口にする。何をしたらよいか分からないという下級兵士に対しても、何もするな、罰せられたり、愛されたり、憎まれたりすることを期待するな、と言う。だが北はここで、本当に何もするなと言っているわけではない。「何もするな」ということは、「我慢できなくなってしてしまえ」というメッセージでもあり、ただそれは「私がしろと言ったわけではない」というエクスキューズをともなっているということだ。我慢できない状況を作っておいて「我慢しろ」と言うのが「戒厳令下にある」ということなのか。北自身、罰せられたいという欲望を、我慢できずに自ら罰する(自傷する)。だから北は下級兵士に対しても、遠回しに「裏切れ」と言っていたようなものだとも言える。

この映画で描かれる北一輝の行為はすべて、昭和天皇に対する問いかけであり、挑発であると言える。だが、この映画で(明治天皇の写真は繰り返し現れるが)昭和天皇(の表象)は徹底的に不在であり、「白紙のままの礼状」以外のリアクションもない。北は、昭和天皇の沈黙と不在に敗北した、とも言える(北と物乞いとの対話がそれを物語る)。