02/02/15

●アトリエへ行く途中にある、小学校のフェンスに沿って生えている、骨のようなゴツゴツした形の冬枯れしたイチョウの木の乾燥した樹皮に、一本一本手で触れながら歩いてゆく。
●実は昨日、『ABCアフリカ』を観た後、シネセゾン澁谷のレイトショーで、イオセリアーニの『素敵な歌と舟は行く』も観たのだった。この未知の映画作家の作品は、何人かの人から勧められてはいたのだったが、ぼくはちょっと駄目だった。冒頭のシーンで女の子が積み木で遊んでいるところの、部屋の散らかり具合が良い感じだったので、おっ、もしかしたらこれは、と期待したのだけど、映画が進行するにしたがって、次第に「嫌な感じ」が増してきた。だいたいぼくは、小川に舟が浮かんで、それが緩やかに動きだしたり、田園の真ん中の緩くカーブしたような一本道にスクーターが走っていたりするところを、ただその動きを、映画で観ると、もうそれだけでウキウキしてしまうような単純な映画好きなのだけど、この映画にはそのようなシーンが再三あるにもかかわらず、全然ウキウキすることはなかった。ブニュエルとかタチとか、ルノアールとかバルネットとか、確かにそのような作家たちからの観照を感じはするのだけど、それってつまり、映画好きなら誰でも思わずやりたくなってしまうようなことを、ある程度しっかりした技術に裏打ちされてやってしまいました、という以上のことではないと思う。おおらかな猥雑さと言うか、ある種のいかがわしさのようなものに対する指向を感じはする。だけど、ぼくはいつも思うのだけど、もともと生真面目な人が、ちょっと砕けたことをやってみました、というのは駄目だと思うのだ。どうしても型どおりと言うか、生真面目な人が、猥雑さやいかがわしさまでも、生真面目に学習しました、という感じがしてしまうのだ。(生真面目な人は、とりあえずそれを徹底することで突き抜けるしかないのではないだろうか。)人物造形にしても、一応は「複雑な」ということになっている複数の人物たちの錯綜した関係にしても、二項対立とその廃棄、みたいな分り易い図式があって、教科書通りという感じにみえてしまう。確かに、複雑に入り乱れる人物関係を分り易く交通整理する演出の技術は大したものなのかもしれないし、その錯綜のさせ方に気の効いたところがないという訳ではないが(気を効かせ過ぎなところが嫌だ、と言うべきか)、それでも、演出の運動神経の鈍さのようなものを感じてしまいもする。特にあの、間の抜けた黒人秘書の扱い方とか(コケ方とか)、ちょっとヒドイのじゃないかと思う。これはぼくの生きている「実感」から言うしかなくて、他の人はまた違うのかもしれないのだけど、世界の混濁とか関係の不透明さとかいうのは、この映画が描いているようなものとは違う、という感じがどうしてもしてしまう。(動物の使い方とかも、ちょっと嫌だなあ、と感じた。)