02/02/14

●澁谷のユーロスペースキアロスタミの『ABCアフリカ』。ピーッという電子音とともに映画の撮影を依頼するファックスが映しだされ、この映画が撮られた経緯が簡潔に示された後、画面は、ゴダールの『右側に気をつけろ』や『ヌーヴェル・ヴァーグ』も真っ青というくらいにカッコ良く「空港」を映し出す。この映画が、エイズや内戦後の貧困で苦しむウガンダについてのドキュメンタリーであるという予備知識のある観客は、そのような映画が、冒頭からこんなにもカッコ良く、映画として洗練されていることに軽い違和感を覚えるだろう。現地に降り立った撮影隊が乗り込んだ車のなかから切り取る、空や往来、その風景のあまりの美しさ、現地のガイドが歌いだす歌、車中でかかる音楽の素晴らしさに、キアロスタミの映画からいつも感じられる、いきなり始まってしまう躍動感に心地よく乗ってしまいながらも、その違和感は消えることはない。キアロスタミ映画作家としての作家性と、撮影される対象であるウガンダの人々やその現状との関係という、ドキュメンタリーといえば必ず口にされるような、おきまりのうんざりするような問題が、そのあまりに素晴らしい映像の連鎖によって、否応なく感じられてしまうのだ。確かにこの映画は、貧困のなかで沢山の孤児を育てている女たちの姿を、その女たちの自立を助けるためにUWESOが奨励している互助金の制度を、エイズ・センターでの病人たちの姿を捉えているし、そのような悲惨な現状のなかにいながらも、カメラを前にしてはしゃぎ、歌い踊り、木の幹に立て掛けられた黒板の前で授業を受ける子供達の、まさに「この世界の肯定」そのものであるようないきいきとした姿や、活気にあふれた集落の様子、赤味の強い土に濃い影の落ちる美しい風景などを捉えている。しかしそれらは結局、金持ちの観光客の視線であることは言うまでもない。キアロスタミは、依頼を受けてやって来て、そこを通り抜けるように何日が撮影して、そそくさと立ち去るだろう。例えば互助金の制度にしても、それを紹介するだけで、この制度がどの程度上手くいっていて、どのような問題が日々持ち上がっているのか、それらの問題をどのように処理しているのか、と言うことについては一切触れない。ある日ふとエイズセンターを訪れ、ずけずけとはいりこんでは患者たちを撮影し(力なく横たわる患者たちは、それでも皆カメラの方を見ている。この視線は、どのような視線なのだろうか)、まるで面白いものでも見つけたかのように、ボロ布で包まれた遺体を撮影する。エイズセンターで印象的だったのは、何とも気が滅入ってしまうようなこの環境のなかでも、笑いながら陽気に働いてる看護婦の様子なのだが、キアロスタミはこの看護婦たちに、この病院での労働についてとか、普段の生活についてのインタビューをすることもなく(したかもしれないのだが、作品には収録せず)、この看護婦たちをひとつの点景として処理している。
キアロスタミは、撮影するものと撮影されるものとの非対称的な権力関係に対して、決して無自覚な訳ではないだろう。無自覚な者にこのような凄い映画が撮れるはずはない。しかし、その関係に決して「悩ん」だりもしないのだ。飢える心配などない、イランでもヨーロッパでも巨匠待遇を受けている者が、ちらっとアフリカを訪れて悲惨な人たちのいきいきした姿を撮影し、それを「自分の作品」としてしまう、これこそ搾取と言うものなのではないか、などという「誠実な」悩みなどとキアロスタミは平然と無縁でいられるのだ。この作品が、先進国の金持ちたちの間で、「彼らのいきいきした表情を見て、自分の生き方を考え直しました」なんていう風に消費されるのだとしても、キアロスタミはそんなことで落込んだりしないのだろう。キアロスタミにとっては、エイズセンターで苦しんでいる人々も、夜中に街灯に集まってくる恐ろしい数の蚊の群れも、暗闇を切り裂く落雷も、教師たちが集まって住んでいるというボロ家で、子供たちがいつまでもピッンピョンと飛び跳ねている様子も、その家の濡れた床も、全て「この世界」が我々に与えてくる「即物的」な表情のひとつに過ぎないということによって、同一平面上に並べられるのだ。そして自分の仕事は、その表情の魅惑的な部分をカメラによって拾い上げ、記録するということだけなのだ、という残酷な割り切りをもっているのだろう。キアロスタミは、ある時はビデオカメラをもって子供たちのただなかに入り込み、ほとんど一体となってカメラをまわし、またある時は、他所ものとして決して同化することのない対立した視線を投げてくる病人たちを、許し難いほどの図々しい残酷さでカメラに納めるという風に、その場その場で柔軟に(玉虫色に)態度を変化させることができるのだ。だからこそ、ほとんど許し難い非人間的な映画撮影マシーンであるキアロスタミは無敵なのだ。(キアロスタミの視線が「やさしい」などと一体誰が言っているのだろうか。それは徹底して残酷であることによって繊細さを獲得している、というようなものだと思う。)今回キアロスタミはデジタルビデオを使用しているのだが、このキアロスタミとデジタルビデオとの結びつきは最強で、まさに「鬼に金棒」と言うべきではないか。