●『彼方より』(高橋洋)を、YouTubeで観た(9月30日まで限定配信)。
https://www.youtube.com/watch?v=ar8hicvEzo0&feature=youtu.be
いわゆる「リモート映画」は、映画館のスクリーンではなく、スマホやPCの画面で観られるべきものだろう。仮に、俳優が、スマホやPCに内蔵されているカメラによって撮られているとすれば、その時、俳優と観客はどちらも、合わせ鏡のように、ほとんど同じ姿勢でスマホやPCの前にいることになる。つまり、彼(女)らは、カメラの前にいるだけではなく、ディスプレイの前にもいて、撮られる(見られる)だけでなく、そのディスプレイにはこちらが(あるいは別の何かが)表示されている(かもしれない)。ディスプレイの表面の薄い膜一枚で隔てられた(非常に近くて、また遥かに遠い)向こう側とこちら側とに、彼(女)らと私とが鏡像反転したような形で存在している。私が彼(女)らに触れることは出来ないとしても、彼(女)らと私の間に、遠隔的だが対称的(双対的)な関係-構造が生まれている。
勿論それはイリュージョンだ。私が画面を観ている時、俳優は既にスマホやPCの前にはいない。それは既に撮影され、加工されたもので、つまり過去の痕跡にすぎない。彼(女)らと私はリアルタイムで交信しているのではなく、薄皮一枚を介して鏡像反転的対称性をもって存在しているかのような感覚はまやかしである(俳優たちは既に時間の外にいる)。とはいえ、このイリュージョンは、通常の映画における(観客から撮影対象への)視線の一方通行性を揺るがせ、観客が対象へと送る視線がそのまま反転して、観客に自身の身体の存在を意識させることにつながる。今、ディスプレイに表示されている俳優の身体の前にもディスプレイがあり、今、ディスプレイを観ている観客の身体もまた、向こう側のディスプレイ上に表示され得るものである、と。
ディスプレイの向こう側にいる俳優を観ることが、折り返されて、ディスプレイのこちら側にいる「私」の存在を意識させる。このような感覚が発生するためには、実際にZOOMやスカイプ、Google Meetなどによる通信を経験している必要はあるのかもしれない。とはいえ、このような経験は映画にはない新しいものではないだろうか。
たとえば、映画でカメラ目線で撮影された俳優を見る時、スクリーン越しに俳優と観客の目が合ったように感じられる。この視線の(本来交錯しない)交錯は、相手のまなざしを見る(自分が見られているのを見る)ことによって生じる。しかし、リモート映画における鏡像的対称性(への意識)は、相手のまなざしを介して起こるのではなく、通信技術や通信のメカニズム(対称的構造)への意識によって生じる。私の前にスマホやPC(ディスプレイ平面)があるのと同様に、彼(女)の前にもスマホやPC(ディスプレイ平面)があるはずだ、と。通信技術とディスプレイ平面を介した対称性の発生に、彼(女)が私を見ているまなざしは必ずしも必要ではない。
観客が、俳優たちとの鏡像的対称性を感じている時、向こう側には既に俳優たちはいない。だからこの対称的構造はイリュージョンである。だが、それによって意識される自分の身体は、たしかに今、ここに存在しているはずだ。そうだとしても、もし、向こう側にいる彼(女)たちの存在が危うくなるとしたら、そこから反転的に意識されている、観客自身の存在もまた、危うく感じられるようになるのではないか。こちら側は向こう側でもあり、向こう側はこちら側でもある(対称的)。対称性が意識される時、向こう側の危うさに、こちら側の存在が引っ張られる。観客が、幽霊のように既にそこにはいない俳優たちを介して自分の存在の意識を得ているのだとすると、そのような自分の身体の存在への意識は、はじめから危ういとも言える。
(このことは、『彼方より』における、この世とあの世との関係とパラレルであると思う。あの世=向こう側の「時間の関節」が既に外れているとすれば、その影響はこの世=こちら側にも浸透してくる、というような。)
●以上のことは、リモート映画であり得る「ある一つの層」についての記述にすぎない。たとえば、(時間と空間の関節が外れているかのように)複数の層が同時に走りながら複雑に絡み合い、スイッチが切り替えられつづける『彼方より』を、そのような一つの層だけで捉えることはとてもできない(たとえば、『彼方より』において、まなざしの力はとても重要だ)。だが、そのような層が存在するということが、この作品にいわゆる「映画」とは異なる様相を帯びさせている大きな原因の一つとは言えるのではないかと思う。
(つづく)