『ヤンヤン 夏の想い出』(エドワード・ヤン)

ドゥルーズ『シネマ2』の結晶イメージについての4章で、ルノアールフェリーニが対照的に語られるところが印象的だ。結晶イメージとは簡単に言えば、現在という時間のなかで、あらゆる時間の層が「未来についての現在」「現在についての現在」「過去についての現在」というかたちで共存し、時系列的な時間(現在)が成り立たなくなってしまうようなイメージのことだ。それは時間そのものを直接的に示すようなイメージで、それ自身として存在する「純粋な過去」を指し示すとされる。ぶっちゃけて俗っぽく言えば、「現在」が時系列的時間の「先端」としてのアクチュアリティを失い、「永遠に存在する過去そのもの(記憶)」となってそれ自身として勝手に自己差異化し、自己増殖してゆくようなイメージだと言ってよいと思う。(もっともベルクソン-ドゥルーズによれば「純粋過去」は客観的に実在するものであるから、「記憶」とは異なるのだが、それはまあ置いといて。)ルノアールではそれが主に演劇においてあらわれ、フェリーニでは祝祭においてあらわれる。しかし、ルノアールにおいてもフェリーニにおいても、結晶イメージは決して閉じられたものではなく亀裂をもち、そこから飛び出してくるものがある、とされる。ルノアールにおいては、結晶イメージは「死」の場所であり、そこから飛び出すのは力強い生の意欲である。結晶イメージは様々な「可能」なものの総体であるから、人はそこで自らの可能性をいろいろと試した後、そこから飛び出てゆく。《人は結晶のなかに生まれるが、結晶は死しか引き止めないので、生はみずからを試した後、そこから出なければならない。》だがフェリーニにとっては逆である。フェリーニでは、結晶イメージそれ自体がきわめて濃い密度をもち、力強く生長してゆくものであり、そして永続するものであるのだから、そこから溢れ落ちるものは「死」に向かうしかない。《もろもろの現在は走り去ってゆくが、未来のほうにではなく、墓のほうになのだ。》そしてその区別に従うのなら、この『シネマ2』という本は、ルノアールよりもずっとフェリーニに近い位置で書かれているように思われる。
●昨日観直した『ヤンヤン 夏の想い出』(エドワード・ヤン)もまた、ドゥルーズの分類に従うならば、ルノアール的であるよりもフェリーニ的な映画だ。この映画には、イッセー尾形によるとても印象深い台詞がある。「人は毎朝新しい朝を迎えて布団から出る。それなのに何故、新しいことを恐れるのか。」しかしこの映画全体としては、この台詞と逆のベクトルをもつ。この映画には、日々新たに訪れる「新しい朝」というようなもの、時系列的に未来に延びて行くような時間というようなものはない。この映画ではひとつの家族(とその親類や友人たち)が描かれるが、それは「家族の関係」といったものが描かれるのではない。家族を構成する一人一人は、それぞれがバラバラの「別の時間」を生きている。そしてそれぞれバラバラの時間を生きる者たちが「共存する現在」の場所として、高級そうな高層マンションの一室がある。ドゥルーズ風に言うならば、このマンションの一室こそが、あらゆる時間の層が「未来についての現在」「現在についての現在」「過去についての現在」というかたちで共存する結晶イメージを容れる器としての「現在」なのだ。そのことは、父親が三十年ぶりに会った昔の恋人と日本で過ごす一連のシーンではっきりとあらわれる。父がかつての恋人と過去を語りながら旅行するシーンは、その娘がはじめて男性とデートするシーン、そして、息子が初めて女性に対して性的な興味を感じるシーンと、重ね合わせるようにして示されている。ここでは、家族一人一人の別個な行動が示されるのではなく、人間の一生のなかにある三つの異なる時間が同時にあらわれ、重ね合わされているということだ。しかしこれは、一人の人物(例えば父親)に焦点化された回想ではないのだから、この三つの時間全てが「現在」であって、同時にあり、同等な重さをもつ。複数の時間が、どれも同等な重さをもってあらわれるということはつまり、線的、時系列的な時間の「現在」が成り立たなくなるということであり、その「現在」が常に招き入れる「新たなもの」としての未来へと向かう時間がその作品世界から消失するということでもあるのだ。父親は、新興宗教にはまって山に籠っていた妻が帰宅した時に、「君がいなかった時に青春時代をやりなおすような出来事があった。昔とは別の結末になると思っていたのだが、結局同じ結末になった。」と語る。これはそのまま「新しい朝はもう来ない」と言っているように聞こえる。決して「新しい朝」のやってこない場所で、しかし、あらゆる過去の時間が豊かに響き合いつつ反復されるような場所で、私はこれから生きてゆくのだ、と言っているように、ぼくには聞こえた。そのことを証明するように、冒頭の結婚式のシーンで倒れたおばあさんは、孫娘に折り紙を手渡す(孫娘を「許す」)ほんの僅かの間だけ起き上がりながらも、「新しい朝」に向かって起き上がることは二度とないままに亡くなってしまう。(ヤンヤンが未来へ向かう時間を示しているじゃないかとか、孫娘へ渡された折り紙が未来へと伝えられるものじゃないか、と読むことは出来るかもしれない。しかし、しかしヤンヤンは、これから成長する子供というよりも、永遠に子供であるような精霊的な存在として描かれているし、孫娘もまた、既に一度おばあさんによって生きられた時間が、現在においても反復しているような存在に感じられた。)
昨日の夜中、この映画を観返しながら、このような作品がエドワード・ヤンの遺作になったという事実に対するなんとも言えない思いを噛み締めていたのだった。イッセー尾形の言う「新しいこと」とは、まるで「死に向かう」ということだったかのようにすら感じられる。この映画をつくった時、エドワード・ヤンはまだ五十歳を少し過ぎたくらいだったのだ。