最近、DVDソフトを買って、何度も繰り返し観ている映画が

●最近、DVDソフトを買って、何度も繰り返し(全体ではなく、断片的にだけど)観ている映画が、ルノアールの『ボヴァリー夫人』とパラジャーノフの『ざくろの色』で、面白くて仕方が無い。これらの映画は、一つ一つのショットが異様なくらい「よく見える」のだ。例えば、昨日の日記で書いたソクーロフの『静かなる一頁』が、画面全体に水の気配が満ちているのにもかかわらず、その、偏在する水の位置が確定出来ず、つまり水との距離の計測ができず、とても「見えずらい」映画であったことと反対に、フレームの内部にあるあらゆるものが「よく見え」てしまうことによって、しかしやはり、距離も位置関係も無効になってしまうのが、『ボヴァリー夫人』であり『ざくろの色』なのだった。
●勿論、ルノアールパラジャーノフは全く似てはいない。しかし、画面のあらゆる部分が「ほぼ同じ強さ」で、同じくらい「よく見えて」しまうこと、さらに、あらゆるショットが、「ほぼ同じ重さ(重要さ)」で並んでしまっていることで、距離や位置関係(つまり空間)、そしてリニアな物語=時間(説話論的持続)が、潰れてしまうようにみえる、という点で、似てしまうのだ。
●例えば、『ボヴァリー夫人』で、エンマが農業共進大会のために身繕いをするシーン(ショット)がある。ここでは、身繕いをするエンマ、それを手伝う女中、そしてエンマのひらひらのスカートにまとわりつく子供(ベルト)、の三人がフレームのなかにいるのだが、この三者の動きが全くバラバラなのだ。エンマと女中は会話をしているのだが、ここで話は全くかみ合っていないし、互いに相手に関心があるようには思えない。(エンマはただ、自らの姿を気にしているだけだし、女中はただ自分の仕事をこなしているだけだ。)ベルトにいたっては、単純なからくり人形みたいに、エンマのスカートの裾をにぎって、ゆらゆらと単調に身体をうごかしているばかりだ。(この行為が母親に対する呼びかけには思えない。)もっと言えば、この三人の女達と、彼女たちのいる空間の背景や、彼女たちの着ているもののあり様なども、相互に何の関係も生じず、ただバラバラに存在するだけのようにみえる。言い換えればそれは、このショットには中心となる何ものか(人物なり、動きなり、物語上の出来事なり)がなく、つまり、何が主で何が従だという階層的な秩序(遠近法)が成立していなくて、あらゆる事物、人物、動き、がそれぞれ独立したまま、ほとんど同等の強さであるため、それぞれがそれぞれの都合、それぞれのリズムで勝手に動いているようにしか見えないのだ。そしておそらく、我々がそのような状態を視覚的に捉えることは、肉眼だけによっては決して出来ないのだ。(つまり、映画によってだけ、「観る」ことが出来る。)あるいは、エンマとロドルフが馬で郊外の森に出掛ける場面の、ロドルフがエンマに抱きつこうとして拒否されるショット。このショットで見ることの出来るのは、エンマとロドルフを演じる二人の人物(の演技や衣装)、その後ろで尻尾を振り、口をモゴモゴと動かしている白馬、そこに射している眩し陽光、そしてそれらの背景にある森、なのだが、この、それぞれ独立した四つの系は、互いに同調することで一つの場面を形作ろうという気配はまるでなく、それぞれが勝手に存在し、分離したままで別々の時間が進行しているように見える。エンマがロドルフを拒否する身ぶりは、その後ろでそんな騒ぎをまるで感知せずにモゴモゴと口を動かし、尻尾を降っている白馬と、ほぼ同等の強さを持つショットの構成要素の一つでしかないし、その両者を共に照らしている光も、人間や馬の都合とは関係なく、おそらくフレームの外にある木の枝の揺れにあわせ、ただゆらゆらと動いているだけだ。(だからこのショットは、エンマとロドルフのショットであるのと同等の重さで、白馬のショットでもあり、木漏れ日のショットでもある。エンマとロドルフのドラマは、このショットに存在する複数の流れのうちの一つに過ぎない。)この無頓着なバラバラさこそが、我々を撃つのだ。
パラジャーノフの場合、ルノアールとは違って、その構図は正面性が強く、シンメトリカルであり、つまり、単純でプリミティブなものにも思える。しかし、だからこそ、そこに規則的に並べられた人物や事物たちの間に遠近法的な空間(階層秩序)が成立せず、どれもカメラとの距離が等距離であるようにみえる。(画面に小さく写っているものがあっても、それはたんに「小さく写っている」ということで、遠くにある、ということではない。)個々の事物はほぼ等しい強さをもち、空間ではなく、テクスチャーが画面を埋め尽くす。だからこそ、個々の事物や人物が、それぞれバラバラに動いているる様が、しっかりと鮮明に見えてしまうのだ。それは、一見したところ(静止画としてみれば)単純な構図だが、だからこそ、無限の複雑さ(運動の複雑な重なり合い)を顕在化させることが出来る。遠近法や主従関係が成立しないということは、「ここを(中心として)見ろ」という風に視線を導くものがないということで、つまり、その画面は「全てを同時に見ろ」と、その異様なクリアーさによって要求してくる。しかし、それぞれの事物がそれぞれのリズム(時間)によって勝手に動いているような画面の全てを、我々の視覚は同時に捉えることなど不可能なのだ。その不可能性を「目」が感知する時、空間の無い(潰れた)画面に、遠近法的な空間とは別種の「深さ」が立ち上がり、確固たるものとして存在した視覚的なフレームは、時間のなかでほどけ、崩れてしまうだろう。(おそらく、このようなショットの強さこそが、映画というものの原初的な強さなのではないだろうか。)
●このようなショットは、たった一つでそれ自体として自律していて、一つのショットがそれだけで映画全体とほぼ同等の強さを持つだろう。(だから必ずしも「全部」観る必要はない。)つまり、このようなショットは、別のショットとの関係や、別の動きとの繋がりや、別のイメージとのモンタージュによって意味をもつのではなく、ただそれ一つだけで一つの全体をつくりだしている、と言えるだろう。『ボヴァリー夫人』や『ざくろの色』はつまり、一つ一つそれぞれのショットが、映画全体と同等であるような強さを持つショットの、たんなる羅列や積み重ねによって出来ていると言える。(全てのルノアール、全てのパラジャーノフがそうだというわけではない。)だからここでは、ショットとショットの繋がりや順番や関係は、あまり重要な意味をもたない。『ボヴァリー夫人』や『ざくろの色』を観るということは、一つ一つのショットを見ることの驚きや衝撃を、それが立ち上がる度毎に受け止め、ただただそれが積み重なってゆくという経験なのだと思われる。つまりここでは、説話論的持続というものが(「無い」というのではなく)、ほとんどどうでもいいものになっている。
(全てのルノアールがそうだというわけではない、と書いたが、例えば『ピクニック』では、人物の感情と気象条件とが、あまりに美しく「同期」してしまっているので、ショットそれ自体の粒立ちは後退しているようにみえる。勿論、そのかわり別のものを得てはいるのだが。)