『寓話』(小島信夫)を半分くらいまで読んだ

●『寓話』(小島信夫)を半分くらいまで読んだ。なかほどに出て来る、浜仲の妹(異父妹)から浜仲へと宛てられた手紙が凄くいい。説明すると面倒くさいことになってしまうのだが、この小説の主人公とも言える浜仲という(父がアメリカ人であるハーフの)男が、アメリカ人と結婚してニューヨークに住んでいる異父妹に、(この小説の語り手であり、浜仲をモデルとして書かれた「燕京大学部隊」の作者でもある)作家、小島信夫が今(と言っても、この小説が語られている「現在」からみるとずっと過去なのだが)アメリカに滞在しているので、その様子を探って欲しいと依頼し、依頼された妹がそのために旅行に出て、そこであった出来事や感じたこと、思い出したことなどを兄へと宛てた手紙に書き、その過去の妹からの手紙を、(小説で語られている「現在」の)浜仲が、語り手である小島信夫に向けて(暗号を用いて)送る手紙のなかに引用している(そしてそれを、作家小島信夫が小説「寓話」に引用している)、ということになる。しかし、こういう入り組んだ構造は割とどうでもよくて、この手紙それ自体がとても良いのだ。
妹は、小島信夫接触するための旅のついでに、ずっと消息を(兄には内緒で)探っていた兄の父のもとを訪ねる決心をするのだが、訪ねてみると兄の父はほんの少し前に亡くなっていて、「兄の父」の未亡人と会うことになる。要約するのは難しいのだが、ここで、浜中の異父妹と、浜中の父の未亡人である老婆との間で交わされる、『ハムレット』や『オイディプス王』や仏教の法話カルデロンという劇作家の『人生は夢』という戯曲についての(手紙に書かれた)会話がとてもよいのだった。そしてその会話そのものだけでなく、その会話を、なんとか兄に伝えようとして手紙に書くわけだけど、その手紙から感じられる、「この感じ」を伝えたいのだ、という感情のようなものがとても素晴らしいと思うのだ。
●以下で、引用するのは、上述した会話の部分ではないが、同じ、浜仲の妹の、兄への手紙の、別の部分。(妹は中国で生まれて育ち、戦争中にも大陸で看護婦をしていて、戦後、シベリアへ送られた。)
《私は「燕京大学部隊」という小説のなかで,キャンパスの池のまわりを、作者が散歩した思い出を、歌うようにして記しているところがたいへん好きです。私は、誰でしたか、ロシアの小説家がシベリアの要塞監獄のなかの経験を、別の人物に托して書いていたものを、昔よんだことがあります。あれは私がまだ女学生の頃です。監獄の中の生活はあまりに陰惨なので、駆け足で目を通しただけでしたけれども、柵のなかから外の景色の変化、とくに春になるときの気持ちをうつしたところは気分としては残っています。あの頃からずっとそうなのです。シベリアへ連れて行かれてからあの小説のことを思い浮かべました。すると不思議なことに、私が読みとばした部分まで、すこしも陰惨という気がしなくなりました。すべてがあたりまえのことに思えてきました。私自身が監獄の、それも一種の要塞監獄のようなところで生活するようになったからかもしれないのですが(といっても、私は日本の兵隊さんたちと同じ部屋にいたわけではなく、ロシア人の看護婦たちといっしょに暮らしてはいたのですが、でも私は日本の人の労役を見たり、病人の看護をしたりしたのですから、いってみれば、同じようなところはありました)、でも私はつらい目にあったから、それから監獄に入ったから、あの小説の陰惨なところが陰惨にも暗くも見えなくなったのではないようです。》
《私はシベリアに春がきたときのかんじをどう伝えたらいいのか、分かりませんでした。そのかんじは私だけのものではなくて、日本の兵隊さんたちだけのものではなくて、あそこにいたロシアの人たちも同じでした。私はかってに歌をうたったら、ロシアの人たちもうたいだしました。ロシアの民謡をうたいました。どんな民謡だか、もうお分かりでしょう。》
《私は春になると、ある草をとりに舟で河をのぼり、支流の流れに入りました。このときは面白いことにロシアの兵隊も看護婦も、それから私も、日本の兵隊さんもいっしょに出かけたのでした。どうしてだったか分かりません。壊血病の予防の草です。三日間でした。まるでピクニックでした。どうして私はこんなこと思い出したのでしょう。そうそう、それから私は、直接はかんけいありませんが、あの場面をよく思いうかべるのです。だから、兄さん、いま例にあげたこととどこかつながりがあるのでしょうよ。》