ブリジストン美術館の藤田嗣治

藤田嗣治について書く都合があって(でも、何をどう書いたら良いのか、とっかかりが掴めなくて)、確かブリジストン美術館に2点ほどあったはずだと思って、とにかく実物を観て考えようと、観に行った。美術館では、フジタは日本近代絵画を集めた部屋に、佐伯祐三梅原龍三郎とに挟まれて展示してあった。展示されている2点の絵は1940年前後にに描かれたもので、フジタは39年に3度目の渡仏をするが、第二次世界大戦が起こり、40年に帰国していて、そして41年には太平洋戦争が始まるわけで、つまりそういう時期に描かれた絵なのだった。
日本近代絵画の部屋に置かれていると、確かにフジタの絵の陶器のような乾いた絵肌やくっきりと澄んだ感じは、他の画家のものとははっきりと異質にみえる。それは、いわゆる「近代絵画」の問題意識とは全然別のことをやっている、ということだ。フジタは、ピカソから割合高く評価されていて、ピカソのアトリエで見せてもらったルソーにいたく感動したという話があったりする。それはつまり、ピカソにとってフジタはルソーとほぼ同等に位置づけられる画家であったということでもあって、「西洋近代絵画」とは別の価値観を示すものとして、ピカソのアンテナにひっかかった、ということだろうと思う。(ピカソの「新古典主義」時代の作品からは、フジタと共通するものが感じられる。あるいは、多少なりともフジタからの影響があったのかも知れない。)ピカソにとっては、メジャーなものとしての西洋近代絵画に対する、オルタナティブなものとして発見されるルソーに、おそらくフジタは素朴に感動するわけで、そこにははじめから位相の違いがある。
日本の近代絵画は、西洋の模倣であるのだが、そういうものは(本場のものを直接目にすることの出来る)現在から観れば、少なからず「恥ずかしい」ものだろう。例えば、藤島武二のような画家に驚かされるのは、彼の作品は現在から観てもほとんど恥ずかしい感じがしないということで、つまり、少ないサンプルから的確にその本質を見抜き、そしてそれを着実に自分のものにすることが出来るセンスの良さがある、ということだ。しかし、日本の洋画界においてメジャーな様式となるのは、藤島よりもずっと鈍臭い画家である、安井曾太郎梅原龍三郎だったりする。フジタは、学生時代から恩師の黒田清輝と折り合いが悪く,そのような日本では居場所がなく、否応無く「本場」を目指すことを強いられる。
ピカソは、その植民地主義的などん欲さで、アフリカ彫刻を引用し、アルタミラの壁画を引用し、そしてルソーを持ち上げる。一方フジタは、「本場」での自らの商品価値を確保するために、日本画のような繊細な線の表現(ナショナル・アイデンティティー)を意識せざるを得ないし、それを油絵において実現するために、あの有名な乳白色の、陶器のような下地を発明する(つまり、それを「本場「で流通可能な支持体の上にのせることの)必要に迫られる。(ブリジストン美術館にある「猫のいる静物」などは、キャンバスに油絵の具で描かれた日本画にしか見えない。)フジタは一応、エコール・ド・パリの画家ということになろう。エコール・ド・パリとは、スーチンやモジリアニのような、パリの異邦の画家たちからなる。しかし、「本場」であるパリに異邦の画家たちがあつまってくるのは当然であり、ゴッホだって、ピカソだって、異邦の画家である。なのにことさせ彼らだけ「異邦」が強調されるのは、彼らの「価値」がそこにこそあるとされているからだろう。
●帰りに、八重洲ブックセンターで、フジタの大判の画集を観たのだが、晩年の作品は、相当にキツいものになってしまっている。子供たちが描かれた不気味な絵や、ゴテゴテときらびやかな、薄っぺらで安っぽい宗教画の、何と言うのか妙に「ゴス」な感じで、陶器のような冷たくもきっぱりした絵肌に、線によって繊細な描画がされている絵を描いていた人が、何故こういうことになってしまうのだろうか。