07/11/20

●『愛その他の悪霊について』(ガルシア=マルケス)。例えば(いわゆる「近代小説」である)フローベールの『ボヴァリー夫人』だったら、非人称的なものであるとはいえ、明らかに語り手の視点のようなものがあり、描写するものとされるものの間の位置関係のようなものが感じられる。(別にフローベールじゃなくても、中上健次でも綿矢りさでもそうなのだけど。)簡単に言えば、読んでいて、ここでカメラの位置がかわったとか、ロングショットからミドルショットになったとか、そういうのが分る。つまり空間が動く。そして、その視点の変化が、時間の伸縮や緩急をつくり、時間の切断、省略(ジャンプ)を可能にもする。でも、マルケスの書き方には視点というものが感じられなくて(空間が希薄で)、言葉の進行のリズムが描かれる対象に先立っている感じがする。映画で例えて言えば、フィルムに刻まれた視点の変化やモンタージュのリズムを感じるというよりも、映写機の回転そのものやそれを回転させている動力、機械的に正確にコマを送り出してゆく運動の方を、強く感じる、ということだろうか。それは、語られる内容によって小説が動いてゆくというよりも、内容の外側にある、内容とは切り離された世界の進行のリズムが内容のなかへと刻まれていって、それに従って、内容(物語の内部)が動いて行くような感じといったらいいのだろうか。(だからそれは、「描写」に対する「語り」ということともちょっと違うことだ。)内容の外側にある、時間の客観性みたいなものを、読んでいて最も強く感じた。この時間とは、物語のなかに流れる時間とはまた別にあるもののように思う。(物語の時間がジャンプしたり前後したりしても、読む時間にはあまり濃淡がなく、常に一定に流れる、というのか。)