08/04/13

●近代が、科学やテクノロジーの発展によって人間の能力がどこまでも拡張してゆくと信じられた時代で、近代、あるいは現代芸術が人間の感覚や認識をどこまでも拡張させ、更新させててゆくことを目的としたものだとするならば、それはほぼ六十年代くらいで終わっている。(いや、おそらく本当は三十年代くらいで終わっている。)それは、テクノロジーの発達が、人間の力の拡張という「希望」の「比喩」として機能していた時代が終わったということだろうし、(近代の理念そのものである)共産主義が、人間の社会のあらたなあり方の「希望」としてあり得た時代が終わったということだろう。(六十八年とはおそらく、希望のはじまりではなく終わりなのだ。それ以降、科学やテクノロジーの発達や社会の変化や「政治」は、資本と結びついて自動的に進行してゆく止めることの出来ない何かで、つまり人間はそれを再帰的にデザインし制御することは出来ず、自然の移り変わりや時間そのもののように絶対的で、「希望(理念)」とはほとんど関係がなくなった。)
でもそれは、近代芸術、あるいは現代芸術の作品そのものの意味が終わっているということではなく、それを感覚や認識の意識的な拡張や更新の(広義の「再帰性」の)道具としてみるという、狭くて浅くて粗い見方が終わったということでしかない。すぐれた作家は(近代、現代作家も)、もともとそんな狭くて浅くて粗いところだけで作品をつくっていたわけではない。
デュシャンでさえ、おそらく共産主義に希望をみていた。でも、彼の作品はそれとはほとんど関係がない。多くの誤解をうけているが、デュシャンは多分、「美術の更新」(つまり、古いものを否定して先にすすむ、みたいなこと)などには何の興味もなかったと思う。(デュシャンによるマニフェストなど想像出来ない。)彼の作品はただひたすら自分自身の欲望のあり様に忠実に、自身の感覚的経験そのものを問題にしているだけだろう。(デュシャンの「便器」を、美術史上の文脈操作の問題として読むのは、デュシャンではなく、それを観ている観客の欲望であり、彼の後につづいた作家や批評家の欲望であって、デュシャンの作品の偏った縮減的要約でしかないだろう。)デュシャンは、マティスにおける色彩の効果を考えるのと同じようにして、自身のレディメイドの効果や極薄について考えていたはずなのだ。(それはおそらく、人間の感覚的な経験が、必然的に「人間」や「現実」からはみ出してしまうということについての探求であるはずだ。このようなことを言うと、そんな考えはオウム事件で破綻したはずだとか、そういう狭くて浅くて粗いことを言う人がいるのだが。)
●例えば、ドゥルーズの、領域化-脱領域化-再領域化みたいな話は、脱領域化がエラくて価値のあるもので、領域化や再領域化という権力に対する抵抗だ、というような単純でアナーキーな話ではないはずで(実際、ドゥルーズは、芸術はリトゥルネロによってある小さな領域をつくることからはじまると言っている)、それは月の満ち欠けのような世界の自動的な進行のあり様の一つのモデルで、領域化があれば必ずそこからこぼれ落ちるものがあり、しかしそれはまた必然的に再び領域化される、というようなことで、すぐれた作家(芸術家)はそれらの動きの全てを同時に扱う(あるいは、それらの全ての力に貫かれる)のであって、いま、よくありがちな芸術家=ハッカーみたいないかにも文化左翼っぽい単純な捉え方もまた、決して間違っているわけではないにしても、狭くて浅くて粗いものでしかなく、スローガンとして威勢がよい(それを言っている人にとって気持ちがいい)という以上の意味をもたない。(ドゥルーズにも、多分にスローガン好きのところがあるのは確かだけど。)おそらく、作家はそれとは別の場所で考える。