描くことと、作業すること

●制作の時はかなりの緊張状態なので、集中力はせいぜい三時間くらいしかもたない。緊張とか集中とかいっても、一心不乱に画面に向かっているのではなく、できるだけ注意を多方向に散らせて、そわそわと落ち着かない感じを持続させるのだけど。ウキウキしているのかイライラしているのか分らないような状態というか、力がはいっているのかダラダラしているのか分らないような状態というか。時計をみながら三時間と決めてやっているわけではなく、ちょっともう集中出来てないなあ、と感じて時計をみると、だいたいそのくらいたっているということで、その日の調子や画面の状態によって、その時間はまちまちだ。最悪なのは、もう「切れている」と分っているのに、やめるタイミングがみつからずに、いつまでもダラダラと画面の前から逃れられない時で、こういう時は画面の状態もよくない。
浪人している時は、毎日六時間から八時間くらい描いてたわけだし、学生の頃は朝から夜までずっと大学のアトリエにいたのだから、年齢とともに集中力が衰えているのは否定出来ない。ただ若い頃にしても、ずっと集中が持続していたわけではなく、実は画面に手をいれるような状態に自分がなっていないにも関わらず、惰性で手をいれてしまっていた、という時間がかなりあったと思う。ただ、その頃の作品は、たんに作業として、長い時間画面にかかりっきりになる必要があった。例えば、1.7×1.3メートルくらいの画面に、人差し指くらいの太さの筆のタッチで色をのせて、画面全体を埋めるということを、何層も繰り返す、という風に。結果的に画面が一色で塗りつぶされるとしても、太い刷毛で塗られるのと、細い筆のタッチの重なりによって埋められるのとではまったく意味が異なる、というようなことをやっていた。それは絵を描くというよりも半ば作業に近い感覚で、しかしその単調な繰り返しとしての作業をする身体のなかにあらわれる僅かな揺らぎのようなものを、作品として定着したかったということもある。
それとは別に、絵を描く前には、描くというのとは別の「作業」の行程がある。パネルをつくり、そこに布を張って、その上に下地をつくる、というようなことだ。そして、支持体としてのパネルをつくるという作業の延長のようにして、細い筆のタッチを画面に重ねてゆく。画面は、作業という行程の労働のなかで、徐々に出来上がってゆく。(学生の頃は、一年半くらいの単位で大きく作品が変化していたので、このような作品ばかりつくっていたというわけではない。)
しかし、ここ十年くらいのぼくの作品は、いかに下地となる「作業」抜きで、いきなり「描く」ところからはじめられるのか、という傾向に傾いている。それはつまり、画面に「描く」以外の意識(例えば「塗る」とか「修正する」とか)では手をいれない、ということだ。いや、この傾向は大学の四年の時から、はっきりと意識されていた。(しかし画家にとって、意識することとそれが出来ることの間には、大きな隔たりがある。絵を描くシステムを変えるというのは、無意識に出てしまう癖を書き換えるくらいに難しい。この時意識したことが出来るようになったと感じたのは、ここ五年くらいのことだ。)大学四年の時に感じたのは、作業の積み重ねによって、作品が構造物として徐々に出来上がってゆくことと、なにかを「描く」ことによって捉えることの間には、根本的な相容れなさがあるのではないか、ということなのだ。つまり、パネルを組んだり、下地をつくったり、その延長として色の層を重ねていったりするという「作業」の精度をいくらあげていっても、それは決して「描く」ことへは繋がらない、と。作業をする時の集中力と、「描く」時の集中力とは全く別ものなのだから、作業されたものの上に「描く」ということなど本当は出来ないのではないか、と。
「描く」ということは、文脈的に整備された土台の上でなされるのではダメで、いきなり「そこ」に描かれるのでなければ死んでしまう。それはつまり、「そこ」にある文脈の全てを同時に受け入れ、意識し、それに直接的に(いきなり)干渉してゆくという行為なのだ。という風に言えば格好いいけど、そんな凄いことが出来ているわけではないが、「描く」というのは、とにかく出来るだけ直接的に「そこ」に切り込むようにはじめられ、「その場」の力の流れを動かしてゆくようなことなのだと思うのだ。とはいえ、「そこ」とはつまり紙の上であり、キャンバスの上なのだから、それは既に歴史的にも工芸的にも「絵を描く」ように整備されてしまっている場ではあるわけだ。作業抜きでとは言っても、木枠を組んで麻布を張るという作業は今でもしている。でも、キャンバスを張った日は絵は描かない。身体や意識が作業を受け入れてしまったら、それをリセットするのに一日はかかるからだ。(昼寝して散歩して風呂に入れば、リセットできるかもしれないけど。)そして、地塗りも下書きもなしで、直接絵の具が剥き出しの「そこ」におかれる。確かに、キャンバスという場は、そこで繰り返し「絵を描く」ということが反復され、それによって制度として形づくられ整備されている。しかし、じゃあそれ以外の場所に描けばそこから逃れられるというものではない。絵を描くための場として整備されたキャンバスを、あたかもはじめての画家が描いた暗い洞窟の天井であるかのようなものとして、いま、ここで出現させようとしているのだと思う。(勿論それは、原始絵画のような絵を描くということとは全然違う。今、そんなことをしても何の意味もない。)集中が三時間くらいしかもたないというのは、そのように「描く」時のことだ。
●「作業」することと「描く」こととの相容れなさは、ぼくのやり方であって主張ではない。これは「正しさ」を担保とした発言ではない。今のぼくにとっては、そうとしか思えないし、そのようにしか描けないのだが、他の人にとっては必ずしもそうではないかも知れない。