「現代ナントカ」のつづき

(ちょっと、一昨日のつづき)
●人から聞いた話だが、以前は、本が朝日新聞の書評欄に取り上げられれば、即、増刷が決まったそうだ。しかし、今はそんなことはないらしい。勿論、書評に取り上げられれば一定の宣伝効果はあるだろう。しかしそれはあくまで宣伝効果であって、それで、その本の価値が「象徴的に」認められたことにはならない。つまりもはや、「朝日新聞の書評欄」には(普遍への接続を約束する)権威はなくて(現世的利益としての売り上げを導く)効果だけがある。似たようなことは「紅白歌合戦」にも言えるだろう。昔は、紅白に出ることが、一人前の歌手として認められることを「象徴的」に意味していた。しかし現在では、そのような象徴的な価値を担うことは出来ていない。(だが、紅白に出ることで、いきなりCDが売れたりすることはある。)ある「業界」内で認められることが、たんに「業界内での出世」を意味するだけでなく、同時に、その資質や技量や仕事の成果が「普遍的」なものであると認められたという意味を含んでいた時代が、つい最近まではつづいていた。それは権威主義的だが、しかし権威が権威として成り立つのは、それがたんに権力によって支えられているだけではなく、普遍性への信頼によって支えられている必要がある。
昔の日本の「現代美術作家」は、作品がまったくお金にならなくても、それを観に来る人がほんの少ししかいなくても、一生懸命作品をつくったし議論した。(別にそれが素晴らしいと言っているわけではない。)作品がお金にならなくても、誰にも観られなくても、ある特定の批評家に(あるいは、ある特定のグループ内で)認められれば、それは「象徴的」に価値を認められたことになり、それが美術史という普遍性へと繋がっているということが信じられたからだろう。「現代美術」など、きわめて少数の「内輪」だけでの出来事でしかない。そこで何が起ころうが、ほとんどの人は何も知らない。それは現実的には何の力ももたない。にも関わらず、それがたんなる「内輪」を超えた、より大きなものへと繋がっているという信頼があった。その信頼は、つい最近までは、確かにあった。しかし今は、そんな権威を背負った批評家などどこにもいないし、権威を保証する何らかの場も成立していない。
この作品は良い作品なのか、そうではないのか。あるいは、この作品とあの作品とではどちらがより良い作品なのか、というような判断の論争は、その背後に普遍的(象徴的)な価値が信じられることで成り立つ。そうでなければそれは、たんなる卑小な意味での利害の抗争(限定されたパイでどうしたらより「動員」できるか)になってしまうか、まあ、趣味の違いで喧嘩なんかするなよ(とはいってもオレはあいつがどうしても気に入らない!)、とかいう話になってしまう。これこそが「わたしたちのリアル」を表現しているなんて言っても、それってたんにあなたのツボをついてるってだけのことじゃないの、というような話でしかない。(例えば、世代間の価値判断の対立は、「普遍」への信仰が成り立たなければ、たんに擦れ違うか、たんに利害上の対立になるしかないだろう。そこでは「対立」することさえ不可能になる。)
現在の美術作家(美術家に限らないと思うけど)は、このような足場のないような場所で作品をつくっている。例えば、「自己表現」みたいな素朴な言葉が簡単に復活してしまうのも、現在、作品をつくる美術家がこういう困難な場所に置かれているからだろう。あるいは、安易なコミュニケーション型のアートは、コミュニケーションというものを「目的」として置くことで、ともかくも「目的」を設定して、このような困難を回避してようとしているのだと思う。(ここで「目的」の項に、コミュニケーションの替わりに「政治」とか「売れること」をかを代入することもできる。)
では、美術史という象徴的な価値も、売れてお金が入るという現世的利益の効果も、「目的」として充分には機能しないとしたら、作品をつくるということは、一体どこに向かっている行為なのだろうか。良い作品を「良い」と判断することを支えていた象徴的な価値体系が信用出来ないとなったら、なにをもって「良い」とするのか。だいたい、コマーシャルなものを基盤としないハイ・アートが「権威」なしで成り立つものなのだろうか。(良いものは良い、と言う時の「良い」が、泣ける、笑える、感動できる、没入できる、ぬける、等々の感情的な使用価値とも、工芸品のような洗練され完成された美しさとも異なるところにあるのでなければ、ハイ・アートに意味はないだろう。)
ぶっちゃけ、「良いもの」とは、それを観る前には、そういう「良さ」があるとは思わなかったが、実際に観てみれば、なるほどこれは「良い」ものだ、と感じられるようなもののことではないだろうか。だから、良いものがとのようなものかなどということは、「それ」を実際に観てみるまで分らないのだが、しかし、観れはきっと分るはずだ、という、無茶苦茶な言い草になってしまうのだが。(美的判断における)普遍性というのはもう、権威や象徴的な体系によって保証されるのではなくて(例えば「ハイ・アート」という枠組みはそれを保証はしてはくれなくて)、「観れはぎっと分るだろう」という、何ともいい加減で楽天的な信仰によってしか支えられないのではないか。だからつくる側としても、明確な目的やしっかりした足場などない、事前に存在する何ものにも保証されない場所で、なんかこんな感じが面白そうだよなあ、という、か細い予感を頼りに一歩一歩進み、踏み出すたびにその感触を確かめ、こっちいっちゃうとつまらなくなりそうだ、とか思いつつ、その微かな予感との繋がりを見失わないようにやっていって、結果として、何かこれ面白いんじゃないの、というものが出来ればうれしい、という風にやるしかないと思う。目的もないし、落としどころも分らない、どこへ向かっているのかも分らないけど、きっと何か「良いもの」に誘われているのだろう、というような予感だけしか頼りに出来ない。勿論、その予感の正しさを保証するものなど何もない。(しかし、そのような歩みの助けとして、ハイ・アートの過去の作品たちは、またまだ役には立つはずだと思う。というか、もはや「美術史」ではなくて、個々の作品が与えてくれる強さのみが、助けになる。)